岩国市の歴史を年表、人物、地図でたどる。観光スポットも紹介
发布时间:2026-09-22 | 浏览:1
石の槍先ひとつ、旧石器か縄文か定まらず
岩国市域で、氷期の人の営みを確かに語れる遺跡は、いまのところ見つかっていない。玖珂(くが)郡一帯をまとめた地誌は「旧石器時代の遺跡は見あたらず、縄文時代の遺跡もきわめて少ない」と、そっけなく書き切っている。
とはいえ、まったくの空白というわけでもない。周東町用田の 用田遺跡 からは、根もとに舌のような突起を出した石の槍先が拾われている。柄に差し込んで縛りつけるための突起で、氷期の終わりから縄文時代の始まりにまたがって作られた道具である。市の遺跡台帳はこれを旧石器時代の遺物とし、いっぽう玖珂町教育委員会が平成13年(2001)にまとめた発掘調査報告書は、同じ石器を縄文時代の草創期、それも県内では出土例に乏しいものと位置づける。どちらかが誤っているというより、この器種をどちらの時代の端に置くかという見方の違いである。用田遺跡は本格的な発掘調査が行われておらず、決着をつける材料がまだない。
周東町上久原の 河池遺跡 でも、建物や墓といった遺構は伴わないものの、旧石器時代や縄文時代の石器が見つかっている。つまり、氷期の終わりごろにこの土地へ人が足を踏み入れていた可能性は残る。ただし彼らが腰を据えて暮らした跡そのものは、まだ地表に現れていない。
この土地の人の営みが、住まいの跡というかたちで確かに立ちあらわれるのは、盆地から遠く離れた錦川中流の阿品(あじな)に竪穴が掘られる縄文時代の早期を待たなければならない。
冠高原の石が下りてきた、阿品のムラ
縄文時代の初めごろ、玖珂の盆地には湖沼が広がっていたと考えられている。その西南の岸、いまの周東町用田のあたりに、狩りと漁で暮らす小さな集落があった。水辺にひらけた低地が、この土地でいちばん早く人を呼び寄せたのである。
住まいの跡がはっきり残るのは、しかし盆地ではない。玖珂の盆地から北東へ15キロメートルほど、錦川の中流に位置する岩国市阿品である。ここに営まれた 阿品遺跡 では、平成5年(1993)の試掘で竪穴住居の跡と土坑が確認された。出土した土器は、器の表面に彫刻した棒を転がして文様をつけた押型文土器で、縄文時代の早期後半、およそ7,000年前のものとされる。石器とその削り屑の多くは、市の北の山地に産する冠高原の安山岩で作られていた。山で採れる石が、この住まいまで運ばれていたことになる。この遺跡は『岩国市史』には西ヶ尾遺跡の名で記されている。
北の山あい――のちに山代と呼ばれる一帯にも、人はいた。本郷町の 郷遺跡 からは縄文時代後期の土器がまとまって出土し、玖北の地域で縄文時代を語るうえでの大きな成果とされた。旧本郷村の沿革も、村の中心部の山裾から縄文時代の住居跡や土器が出たことを伝えている。玖珂町臼田の臼田遺跡では、玖珂の地域では最も古いともいえる縄文時代の石錐が見つかった。石錐は、皮や木に穴をあけるための錐である。 用田遺跡 には晩期の土器が多く、獣皮を掻き取る掻器、削器、矢の先につける石鏃がそろう。
一方、錦川の下流の平野では、縄文の遺跡がなかなか姿を見せなかった。1980年代にまとめられた地誌は、当時の岩国市域について「縄文時代の遺跡はまだ発見されていない」と記している。これはこの土地の地形と深く関わっている。錦川の運んだ土砂が積もる岩国平野は、陸地として安定するのが瀬戸内の平野としては例外的に遅く、古い時代の遺跡が残りにくいのである。先に見た阿品遺跡は、その平野ではなく錦川をさかのぼった中流の山あいにあり、「まだ発見されていない」というこの記述をのちの調査が塗り替えた一例といえる。
盆地の水辺、錦川の中流、山あいの谷。人の営みが刻まれたこれらの舞台は、稲作の伝わる次の時代にそのまま受け継がれ、やがて濠をめぐらせたムラを生むことになる。
銅鐸を知らぬ盆地に、鉄器40点
稲作が伝わると、玖珂の盆地は一変する。遺跡の数がにわかに増え、玖珂町千束のあたりには集落が群れをなした。ムラは周東町の祖生(そお)へ、さらに南の柳井の方面へと広がり、北は山代の本郷にまで及んでいる。この時代の岩国市域は、まちがいなく盆地が主役だった。
古い順に足跡をたどると、まず玖珂町阿山の 筏山遺跡 から前期末の甕が出ている。中期になると柳井田遺跡で壺が、 河池遺跡 では竪穴住居5棟が見つかった。河池遺跡ではそれ以前の調査で、穀物をしまうための貯蔵穴も確認されている。周東町上久原の上久宗遺跡では、竪穴住居と斜面を削り出した段状の遺構が並び、落とし穴を含む土坑も見つかっている。
そして後期、盆地の風景は緊張をはらむ。玖珂町柳井田中の 清水遺跡 は、平地の田から離れた見晴らしのきく丘の上に営まれた高地性集落で、2重、ところによっては3重の濠が集落をぐるりと囲んでいた。内側には竪穴住居と段状の遺構が数多く並ぶ。この遺跡を際立たせているのは、40点を超える鉄製品が出土したことである。南西に隣り合う畑岡遺跡、そして市井木遺跡も、同じころの高地性集落として知られる。
周東町祖生の奥ヶ原遺跡では、弥生時代から古墳時代後期にかけての竪穴住居23棟と、弥生時代の墓12基が見つかった。石鏃、糸を紡ぐための紡錘車、鉄製品にまじって、鏡の破片も出ている。海を越えてきた品が、この山あいの盆地にまで届いていた。
興味深いのは、これだけムラが密集しながら、青銅器がほとんど見あたらないことである。銅鐸や銅剣を埋めて祀るという、瀬戸内や畿内でさかんだった祭りの輪から、この盆地は遠かったらしい。そのかわりに人びとが手にしていたのが、鉄だった。濠を幾重にもめぐらせた丘と、40点の鉄。玖西の弥生は、祭器ではなく道具と防備の側から語られる。
清水の丘に築かれた濠のムラは、やがて捨てられる。だがその同じ丘に、数百年ののち、今度は石を組んだ墓が営まれることになる。
眺望を持たぬ谷の奥に、玖西随一の石室
古墳時代に入っても、この地の中心はやはり玖珂の盆地にあった。周東町上久原の 用田古墳群 では中期の古墳4基が確認され、3号墳からは取っ手のついた碗が出土している。山口県内では初めての出土例だった。このほか古墳群からは、鉄の鏃・斧・剣や砥石も見つかっている。
そして後期、玖西盆地に飛び抜けた墓がひとつ現れる。玖珂町臼田の 臼田古墳 である。蓮華山の南西の裾、標高75メートルほどの丘陵の先に築かれた直径約9メートルの円墳で、築いたときの高さは4メートル前後、幅1.6メートルの周溝がめぐっていた。封土はほとんど流れ去っているが、そのぶん石室がよく残った。
石室は南西に開く横穴式で、亡骸を納める奥の部屋(玄室)と、そこへ通じる細い通路(羨道)からなる。玄室の入口の両側に袖のような張り出しをもつ「両袖」の形で、検出された長さは5.9メートル、もとの全長は7.5メートル前後と推定されている。玄室は最大幅2.30メートル、長さおよそ4メートル、高さは奥で2.7メートル。壁は上へゆくほど内側にせり出す積み方で、断面は台形になる。天井には分厚い板石が3枚渡され、石材には近くで採れる花崗岩が使われた。羨道には、墓を閉じたときの石がそのまま残っていた。
とりわけ目を引くのが、玄室の中央よりやや入口寄りに、右の壁から部屋の中軸まで3、4段に積まれた長さ1メートルあまりの石列である。玄室を区切ったのか、棚のように使ったのか。ほかに類例のない構造で、いまだ用途が分かっていない。
副葬品は、須恵器の坏・壺・高坏、それに内面に暗い筋の文様をもつ畿内系の土師器の坏。武具では鉄鏃15点が出土し、木の矢柄が残ったものもあった。ほかに小刀2点、鉄釘、鋲金具。ところが玉類などの装身具は、土をふるいにかけても1点も出てこない。早い段階に盗掘を受けたものとみられている。残された人骨は大腿骨の骨頭が1つだけで、その径の小ささから、葬られたのは女性と推定された。
周防の後期古墳は、袖をもたないか片側だけという形が多数派で、両袖の石室は異例である。県内でも有数の規模をもち、西へ1.7キロメートル離れた周東町の 北方古墳 と平面の規模がよく似ている。群れをなさず、ただ1基で築かれた点も含めて、玖西盆地を束ねた有力者の墓とみてよい。
もっとも、この古墳が選んだ場所は不思議である。盆地の中央より30メートルも高いのに、眺望はまったく開けない谷の奥なのだ。高森の集落を一望する北方古墳とは、まるで対照的である。見せるために築いた墓ではなかったらしい。なお臼田古墳の周溝は弥生土器を含む土の層を掘り込んでおり、墓が築かれる前から、この丘には人の営みがあった。
このほか玖珂町阿山の筏山古墳では、昭和30年(1955)1月の国道工事で人骨を伴う竪穴式石室が露出し、小野忠熈らが調査にあたった。人骨の保存はきわめて良好だったという。周東町下久原の大元古墳では横穴式石室の玄室の一部が確認されている。錦川下流の平野では古墳が乏しく、門前に高塚古墳、錦見(にしみ)に江臨寺谷横穴が知られる程度で、後者は宅地造成中に見つかったもので、規模も形も分かっていない。
盆地に石室を築いた者たちは、やがて律令の枠組みのなかへ組み込まれていく。
赤い亀を都へ献じた国、周芳と呼ばれる
7世紀、この地を含む一帯に「周芳国」が置かれた。国の名が史料に現れる最も早い例は『日本書紀』で、天武天皇10年(681)に周芳国が赤い亀を朝廷へ献じたと記す。色の変わった亀は天のしるしとされ、めでたい徴として都へ運ばれたのである。「周防国」という表記に改まるのは、7世紀の末のことだった。
律令の制度が整う前、この地方には国造が置かれていた。周防の域には大島国造・波久岐国造・都怒国造・佐波県主らが並び、熊毛郡と玖珂郡にあたる範囲は周防国造の管轄圏だったとされる。いまの岩国市域はこの周防国造の側に属する。
やがて律令国としての周防国が形をなすが、当初の郡はまだ5つ――大島・熊毛・都濃・佐波・吉敷しかなかった。のちの岩国市域は、このうち熊毛郡の東北の隅にすっぽりと含まれていた。国の中枢である国府は西寄りの佐波郡(いまの防府市)に置かれ、この地は周防の東の端、安芸国との境をなす小瀬川に接する国境の地という位置づけだった。
その東端の地が、独立した郡として名を得るのは、次の世紀に入ってからである。
養老5年、熊毛の東北を割いて玖珂郡
養老5年(721)、熊毛郡の東北部が割かれて玖珂郡が新たに置かれた。『続日本紀』が伝えるこの一行が、いまの岩国市域が一つのまとまりとして歴史に名を得た瞬間である。周防国は6郡となり、以後、明治にいたるまでこの地は玖珂郡と呼ばれつづける。
郡の役所である郡家は、郡のほぼ中央にあたる玖珂郷に置かれたとみられる。近世まで残った「玖珂本郷」という地名が、その名残とされている。地名の由来については、奈良時代、元正天皇のころにこの地から「玖の玉」「珂の玉」という2つの霊玉が現れたためだという伝説が語り継がれてきた。
律令国家がこの地をどう経営したかは、田の区画に痕跡が残る。玖珂町の瀬田・久門給、周東町上久原の久宗・久原・久田、下久原の千束には、水田を碁盤の目のように区切った条里の地割の跡が認められる。条里は国家が田を測り、割りあて、租を取るための仕組みで、その跡が残ることは開発の古さを物語る。
ただし、ここで見落としてはならないことがある。条里の痕跡が残るのは内陸の玖西盆地だけで、錦川下流の岩国平野には古代の開発の跡がまったく見あたらないのだ。近年の地形の研究は、この平野が陸地として安定するのは中世の末から近世にかけてで、瀬戸内沿岸の平野としては離水がきわめて遅かったと論じている。つまり古代の岩国の舞台は、いま市街地が広がる河口の低地ではなく、内陸の盆地と、そこを東西に貫く官道だったのである。
『和名抄』は玖珂郡の郷の名として石国・玖珂・柞原・由宇などを挙げる。石国は錦川下流の一帯、由宇はいまの由宇町域を中心に、由宇川の流域から海岸部にかけての範囲と考えられている。山代の本郷のあたりは大野郷に属し、その中心だったとされる。
そして「岩国」という地名の最も古い姿は、『万葉集』巻四に詠まれた「磐国山」である。石国、磐国、岩国――同じ音をめぐる表記の揺れは、このあと400年をかけて一つに落ち着いていく。
山代の庄、後白河法皇の後院領となる
古代の山陽道は、安芸国から周防国へ入ると、まず「 石国駅 」に着いた。『延喜式』の兵部省の記録に周防国の駅として名が見える駅家で、いまの岩国市関戸のあたりに比定する説が有力である。駅家は、公用で官道を行き来する役人のために馬を常備した施設で、石国駅の西隣には野口駅(いまの玖珂町)が置かれていた。都から西へ向かう人が、周防国に踏み入れて最初に馬を乗り継ぐ場所――それが古代の岩国の役割だった。
いっぽう錦川の上流一帯は、古く山代と呼ばれ、平安の後期には 山代庄 という荘園になっていた。『兵範記』の保元2年(1157)3月25日条に「周防国壱処、山代庄」とあり、山城国の田原庄以下28か所とともに、後白河法皇の後院領に加えられたと記す。後院領とは、位を退いた天皇の家産にあたる所領のことである。錦川をさかのぼった山あいの谷が、都の院の財源として組み込まれていた。美和町茶湯原から出土した鉄の札には康平6年(1063)の年号が刻まれていたと伝えるが、この種の金石文には類がなく、いくらかの疑いも残されている。
荘園の姿を伝える遺構も見つかっている。岩国市土生の 西土生遺跡 では、11世紀後半の掘立柱建物が検出された。四方に廂を張り出した格の高い造りの建物と、それに付属する棟からなり、荘園の経営に関わる建物であった可能性が高いとされる。
信仰の跡も残る。周東町上久原の上久宗遺跡では、火葬した骨をおさめる蔵骨器を伴う平安時代の墓が確認された。玖珂町阿山の 筏山遺跡 には経塚が営まれ、青銅の経筒と青白磁の合子が納められていた。経塚は、仏の教えが衰えるという末法の世を前に、経文を地中に埋めて後の世へ伝えようとした塚である。都の不安が、周防の東端まで届いていたことになる。
山の庄も、駅路も、都の秩序のなかにあった。その秩序を武士の世が塗り替えるとき、この土地の名を負う一族が、はじめて史書に姿を見せる。
岩国の二字が、はじめて史書に現れる
『吾妻鏡』の文治3年(1187)3月10日条に、平氏の家人として「周防国住人 岩国二郎兼秀、同三郎兼末」を生け捕りにしたという記録がある。壇ノ浦で平家が滅びたのち、その残党を捕らえた記録のなかの一行である。これが「岩国」の文字が史料に現れる最も早い例で、『万葉集』の磐国、『延喜式』『和名抄』の石国という古い表記とならんで、以後この二字が少しずつ用いられるようになる。もっとも兼秀たちがどこを根拠地としていたかは、いまも分かっていない。
錦川下流の平野一帯は、中世には石国庄(岩国庄)と呼ばれた。その範囲は、そのまま近世初期の岩国村へと受け継がれている。慶長5年(1600)の検地帳に「岩国庄 高3,155石余」とあるのが、庄としての広がりを伝える。
在地の領主の姿がおぼろげに見えてくるのは、13世紀の半ばである。建長2年(1250)、この地の領主だった 清縄左衛門尉源良兼 が、遠石八幡宮の神霊が白鷺となって室木に降りたことを知り、今津の琵琶首に社を建てたのが 白崎八幡宮 の始まりだと社伝は伝える。清縄氏は、のちに岩国を治める弘中氏の先祖とされ、この記録が、岩国の地に弘中氏一族の存在を示す最も古い年代となっている。
いっぽう西の周防を押さえていた大内氏も、東の端であるこの地に手を伸ばしていた。延慶2年(1309)、大内弘幸を開基、高峰顕日を開山として、横山に 永興寺 が創建されたと伝える。開基を大内弘之とする資料もあり、伝えには揺れがある。のちに夢窓疎石が二世となって枯山水の庭を造ったともいい、その庭は現在も市の名勝に指定されている。大内氏が周防・長門の守護に任じられるより半世紀も前のことで、安芸・石見といった東の諸国をにらむ要衝として、この地が早くから重んじられていたことをうかがわせる。
周防国は中世に入っても勢力の入れ替わりが少なく、執権北条氏の一族による支配を経て、幕府が滅びたのちは大内氏の支配が続いた。そして14世紀の前半、錦川の中州に、大規模な居館が築かれはじめる。のちの発掘調査で、その規模は守護大名大内氏の山口の居館に匹敵すると評されることになる館である。
大内の館に並ぶ広さ、中州に築かれた居館
岩国市楠町三丁目、いまは市街地の下に埋もれたその一角に、中世の岩国を語る最大の遺跡がある。 中津居館跡 である。岩国市教育委員会が平成20年度から22年度(2008〜2010)にかけて発掘したところ、基底部の幅が15〜20メートルもある土塁の跡が確認された。東西およそ120〜140メートル、南北およそ130〜170メートル、土塁と内部を合わせた面積はおよそ2万平方メートルに達する。報告書は、これを守護大名大内氏の居館(山口市)に匹敵する規模と評した。
内部からは、太い柱を総柱に立てた大型の掘立建物の跡と、土師器を大量に埋めた一括廃棄の土坑が見つかっている。放射性炭素年代の測定と出土した土器の年代観はよく一致し、14世紀の前半には土塁が築かれ、大規模な建物が建てられていたとみられる。廃絶するのは16世紀の半ば。およそ250年にわたって使われつづけた平地の居館だった。
この居館の特徴は、川の中州という立地にある。土塁は、防御よりもむしろ水を防ぐ機能を強めた構造をもつと分析されている。錦川が幾筋にも分かれて流れる不安定な低地で、微高地に土を盛り上げ、水と隣り合いながら拠点を構える――それがこの土地の中世のやり方だった。
では、誰の館だったのか。報告書は弘中氏を筆頭の候補に挙げる。弘中氏は壇ノ浦の戦いののち、代々周防国玖珂郡岩国の領主を務めたと伝わる一族で、 白崎八幡宮 を建てた清縄氏を先祖とする。貞和4年(1348)には 弘中兼胤 が岩国荘の鎮守として白崎八幡宮に社領を寄進し、社を白崎山へ遷したと伝え、14世紀の半ばには弘中氏のこの地での支配が固まっていたとみられる。白崎八幡宮は、居館と今津川をはさんですぐ対岸にある。錦見・川西・今津・室の木・牛野谷・中津・車・向今津・門前・平田・海土路・藤生・黒磯・青木・保津・六呂師・叶木――のちに旧岩国十七ヶ庄と総称される村々が、この社を土地の守り神と仰いだと伝える。
弘中氏と大内氏の関係も、しだいに強まっていく。応永14年(1407)の興隆寺勧進帳には、杉氏・陶氏らとともに弘中氏一族が名を連ねており、15世紀の前半には大内氏の家臣団のなかで地位を確立していたとみられる。もっとも中津居館の築造主体については、弘中氏が主体で大内氏が関与した、弘中氏が独自に築いた、大内氏が直轄の拠点として築いた、という3つの可能性が挙げられたままで、決め手はまだ出ていない。いずれにせよ、この地が大内氏にとって東の要であったことは動かない。大永4年(1524)、大内義興が安芸へ出兵したとき、その本陣となったのは横山の 永興寺 だった。
内陸の玖西盆地には、大内家臣たちの山城が並び立った。玖珂町阿山の 鞍掛山城 は東西450メートル・南北320メートルの城域をもち、 蓮華山城 (周東町、標高576メートル)には椙杜氏が、南の瀬田城には小方氏が拠った。北の山あい――山代地方(いまの本郷・錦・美川・美和のあたり)は事情が違う。周防の東端、安芸国境の山間にあたるこの一帯では、大内氏の支配下にあっても、実際には刀禰(とね)と呼ばれる有力な地侍たちの自治にゆだねられていた。旧本郷の地は藤原家領・院領・西園寺領などを経て、15世紀の初めに大内氏の支配下へ入っている。
この均衡を壊したのが、天文20年(1551)、 大内義隆 が家臣の 陶隆房 ――のちの晴賢――の謀反によって自害に追い込まれた事件だった。実権を握った陶に、安芸の 毛利元就 が反旗をひるがえす。岩国の 弘中隆兼 ――『萩藩諸家系譜』は三河守隆包の名で記す――は大内義隆に仕え、岩国だけでなく安芸の分郡の代官や安芸守護代を務めた重臣で、この争いでは陶方に立った。天文24年(1555)3月、隆兼は陶の依頼を受けて江良房栄を岩国の琥珀院で誅殺し、同年10月の厳島の戦いでは陶方として戦って討死する。
厳島で陶が敗れると、毛利元就はただちに周防へ攻め入った。防長経略と呼ばれるこの侵攻の緒戦が、厳島からひと月あまりのちに戦われた鞍掛合戦である。同じ年の10月に天文から弘治へ改元されたため、弘治元年(1555)の合戦として伝えられる。いったん毛利に降っていた鞍掛山城の 杉隆泰 は、蓮華山城の 椙杜隆康 から大内方への内通を訴えられ、攻められることになった。毛利軍は山口の方角へ向かうと見せかけておいて、蓮華山城の側から早朝に背後を突く。鞍掛山城は落ち、隆泰は同じく毛利方に降っていた瀬田城主の小方元康に討たれたという。城跡からは、焼けた米が出土している。落城のときに米蔵が焼けた跡である。城下には戦死者を葬ったと伝える 千人塚 が残る。なお市の遺跡台帳は鞍掛山城の城主を杉隆康と記しており、隣の蓮華山城主 椙杜隆康と名が紛らわしい。
山代でも同じころ、地侍たちが選択を迫られた。毛利氏の進出にともなって弘治2年(1556)ごろに毛利領となるが、その際に 成君寺城 の戦いが起こり、山代の地侍は大内方と毛利方に分かれて戦っている。それに先立つ折敷畑の戦いでは、山代衆が廿日市まで遠征して安芸の国衆に敗れており、山代の武士たちが陶氏の先鋒として使われていたことがうかがえる。本郷町宇塚の成君寺は山代最古の名刹とされ、標高673メートルの成君寺山の八合目に境内が、山頂に城跡がある。
錦川のさらに奥、錦町宇佐では天正年間、木地師から身を起こしたとみられる地侍の大倉左衛門尉が宇佐城に屋敷を構え、宇佐郷を差配したと伝わる。山を開いて力を蓄えた地侍たちとの刃傷や仇討ちが語り継がれ、「七人墓」「智元の丸子」といった地名が残る。
そして中津の居館は、16世紀の半ばに役目を終える。厳島合戦の直後、毛利方の吉川元春が「かや和泉所」に宿陣したという記録があり、弘中氏に代わって毛利方の加陽(賀屋)和泉守がこの居館に進駐したとみられている。中津居館跡が「旧加陽和泉守居館跡」という別称をもつのは、そのためである。250年つづいた館は打ち捨てられ、岩国は毛利氏の領国の東の端として、新しい時代を迎えることになった。
関ヶ原の代償として、玖珂郡3万石へ
毛利氏が防長経略で玖珂郡を手中にしてから関ヶ原までのおよそ半世紀、この地の動きを伝える史料は多くない。山あいの 山代 には毛利氏の検地が入り、天正15年から18年(1587〜90)の検地で石高は5,300石とされている。この数字が、のちに山代の農民を苦しめる高直し――石高を人為的に引き上げる操作――の出発点となる。
転機は慶長5年(1600)に訪れた。関ヶ原の戦いで 毛利輝元 は西軍の総大将に担がれたが、毛利元就の孫にあたる 吉川広家 は徳川家康方と通じ、毛利勢を戦場で動かさなかった。戦後、毛利家は改易をまぬがれたものの、8か国から周防・長門の2か国へと大きく削られる。広家自身も、天正19年(1591)に豊臣秀吉から与えられて拠っていた出雲富田の所領を失った。その石高は資料によって12万石とも14万石とも記される。
そして家康は、周防・長門を毛利輝元・秀就に与えるにあたり、その上方口の押えとして吉川広家を岩国に置いた。広家は毛利氏から玖珂郡のうち25か村と大島郡のうち2か村、あわせて3万石を分知される。毛利本家を救った代償として受け取ったのが、周防の東端の3万石だった。この石高と、家康に通じたという経緯が、このあと260年以上にわたって吉川家の立場を縛りつづけることになる。
慶長5年10月にまず家臣団が、翌慶長6年(1601)に広家自身が岩国へ入った。岩国の町がまだ整っていなかったため、広家は初め由宇に居を構えたという伝えもある。慶長5年には広家の命で今津川の河口に物揚場が築かれた。これがのちの岩国港の始まりで、同じころから今津川の河口から装束にかけての干拓も始まっている。
錦川が二つに分かれて瀬戸内へ注ぐ、湿地の多い低平な土地。ここに城と町をどう置くかを広家が決めるところから、岩国の近世が始まる。
5つの弧を架ける、藩と認められぬ領の橋
慶長6年(1601)、岩国へ入った吉川広家は領内を検分し、ただちに城下町の造営に取りかかった。錦川そのものを自然の堀とし、川が大きく蛇行して抱え込む西岸の横山に、城山の北の嶺を選んで城を、その南の麓の平地に居館を置く。慶長7年(1602)、母のための上の御土居と、広家自身が住む下の御土居を築いた。翌慶長8年から山上の要害を起こし、慶長13年(1608)に竣工。本丸には4重6階の天守が上がった。最上階が下の階より外へ張り出す唐造りと呼ばれる形式だったと伝わる。
対岸の錦見は、錦川の分流を西へ迂回させ、弓なりに堤防を築いて造成した土地である。横山には諸役所と上級・中級の武士を、錦見には中下級の武士と町人を配した。錦見の町割には、柳井から商人を呼び寄せた柳井町のほか、材木町・塩町・魚屋町といった職種の名を負う町が並んだ。
ところが元和元年(1615)、幕府の一国一城令によって、 山上の城 は完成からわずか7年で壊されてしまう。長府の毛利秀元が櫛崎城を破却したのに合わせざるを得なかったためという。以後、麓の 御土居 が明治維新まで岩国の政庁でありつづける。破却のときの様子は地中によく残り、のちの発掘では天守台の礎石が確認され、周囲から大量の瓦が出土した。その瓦は地元産が少なく、福岡から運び込まれたものが目立つ。
岩国の近世を語るうえで欠かせないのが、この領の宙づりの地位である。幕府は吉川氏を藩に列しなかった。江戸に邸地を認め、当主の代替わりに一度の登城と謁見を許すなど藩に近い扱いをする一方、幕府に対して吉川家は毛利家の家来と称した。萩の本藩の内でも、長府・徳山・清末の3つの支藩と同格には扱われず、一般には「岩国領」と呼ばれた。大名なら朝廷から与えられる位階も、「○○守」という官途名を名乗ることも許されず、江戸城で大名が詰める席(伺候席)も定められなかった。参勤交代も、大名のように定期の勤めとしてではなく、将軍や当主の代替わりのときなどに随時江戸へ上るにとどまったとされる。
なぜ冷遇されたのか。関ヶ原での広家の動きが毛利家中で評価されなかったからとも、長府・徳山の毛利家が輝元の子孫で宗家を継ぐ資格をもつのに対し、吉川家にはそれがなかったからともいい、定まっていない。石高もまた曖昧で、分知は3万石だったが、慶長の検地で4万5,000石、寛永の検地で6万石余となり、廃藩置県のころには8万石余に達していた。公称は6万石である。寛永11年(1634)には内高6万石を公称して幕府に認められ、同じ年、長府藩主の毛利秀元とともに本家からの独立を図ったが、これは果たせなかった。
本家との関係が和らぐのは幕末である。安政3年(1856)に毛利敬親が12代の 吉川経幹 を萩に招いて親睦を図り、文久3年(1863)2月には敬親自身が岩国を訪れて、他の3支藩と同様に扱うと伝えたとされる。
城と城下は錦川で隔てられている。橋は城下町の設計当初からの計画で、寛永16年(1639)9月付の橋守の掟書が残ることから、 錦帯橋 以前にも橋が架かっていたことが分かる。だが川が荒れるたびに橋は流された。
3代の 吉川広嘉 は、川の中に橋脚を立てないという発想から、大工の児玉九郎右衛門を甲斐の猿橋の調査に送っている。猿橋は両岸から木材を斜めに突き出して橋桁を支える刎橋だが、川幅200メートルの錦川ではその手が使えない。行き詰まった広嘉に着想を与えたのは、明から渡来した僧の独立性易がもたらした『西湖遊覧志』だった。杭州の西湖で、5つの小島を橋がつないでいる図である。川の中に石の橋台を築き、そのあいだにアーチを連ねる――5連の橋の構想は、ここから生まれたと伝わる。かき餅が弓なりに反るのを見て思いついたという話も伝わるが、これは異説である。
寛文4年(1664)の着想から9年。延宝元年(1673)6月28日に鍬入れ、同年10月に橋は完成した。渡り初めを務めたのは、家内が睦まじいと評判の農家清兵衛の一家12人だったという。ところが翌延宝2年(1674)の洪水で橋台が崩れ、橋は落ちてしまう。敷石を強くして同じ年のうちに架け直し、延宝5年(1677)には河床に石を捨てて基礎をさらに補強した。この延宝2年の架け直しののち、橋は276年にわたって一度も流されない。
5つの橋のうち、中央の3つが支柱をもたないアーチである。藩政期の史料では「大橋」と記されることが多く、凌雲橋・五竜橋・帯雲橋・十露盤橋とも呼ばれた。架け替えの費用は、身分を問わずに割り当てられた「橋出米」でまかなわれている。しかし橋そのものは吉川家の所有物であり、渡ることができるのは原則として藩士だけだった。百姓や町人は渡船で川を越えるのが定めで、もっとも門番に心づけを渡してこっそり渡る者もあったという。アーチの橋はおよそ20年、桁の橋はおよそ40年、橋板と高欄はおよそ15年ごとに取り替えられた。同じ形を繰り返し作り直すこのやり方は、架け替えの技を絶やさないためだったと考えられている。現存する最も古い図面は元禄12年(1699)の掛替図面で、寛政8年(1796)の改良でいまの形が定まった。
藩士しか渡れないその橋は、しかし絵によって全国のものになった。葛飾北斎は、諸国の名橋を一枚ずつ選んだ連作『諸国名橋奇覧』のうち「すほうの国きんたいはし」に、川面をまたぐ弧の連なりを大きく描いている。歌川広重も、全国の国ごとに名所を一つ選ぶ『六十余州名所図会』で、周防国の一枚として「周防 岩國 錦帯橋」を採った。周防に数ある景勝のなかから 二人の絵師 がそろってこの橋を描いたこと自体が、江戸後期にはこの橋が全国区の名所になっていたことを物語る。
小さな領の財政を支えたのは、山と海だった。山代の山々では楮が育ち、錦川と小瀬川の水を使って紙が漉かれた。2代の 吉川広正 は寛永17年(1640)に紙を専売とし、岩国半紙は瀬戸内を船で運ばれて京・大坂の市場に出ていく。享保年間(1716〜36)には大坂で広く取引されるまでになり、移封のときに3万石だった経済力は、実質で最高17万石といわれるほどに育ったという。
ただし山代のすべてが岩国領だったわけではない。本郷のあたりは萩本藩の直轄領で、代官所が置かれ、藩政の間を通じて山代の政治・経済・文化の中心として栄えた。萩本藩は山代の農民に楮を作らせ、漉いた半紙を年貢の代わりに納めさせて大坂で売っている。請紙制と呼ばれるこの仕組みと、岩国領の専売と。同じ紙をめぐって、二つの領主の仕組みが山を分けあっていた。武家の内職としては岩国縮も知られる。寛延2年(1749)に丹後から縮緬の技術を持ち帰って改良したもので、中級以下の武家の女たちが織り、大坂や瀬戸内各地で売られた。山の恵みは鉱物にも及ぶ。二鹿では寛文9年(1669)に鉱脈が見つかったと伝わり、寛文11年(1671)以降は銅や鉛が小規模に掘られた。吉川家が所有して錫の鉱石を採った時期もある。
海の側では干拓が進んだ。減封のうえに城下町の建設と幕府の普請手伝いが重なり、年貢米を増やすことが急務だったのである。工法は独特だった。満潮のときに舟で石を運んで落とし、潮が引いているあいだに木の杭を打ち、土を盛り、石垣を積んで堤防を伸ばす。潮を止めたあとは樋門と「しおまい」と呼ぶ遊水地を使って塩を抜き、田にする。慶長17年(1612)の前潟・中潟・向潟・中開が最も古い部類で、17世紀の半ばから後半にかけて野村開・桑原開・渡辺開などが続き、元禄元年から3年(1688〜90)の一ノ割から三ノ割・横割、元禄6年(1693)の亀川新田へと広がった。4代の広紀はこの藩営の干拓を大きく広げ、岩国領は全盛期を迎える。
18世紀に入ると適した土地が尽き、資金も乏しくなって干拓は激減した。19世紀には官民が共同で、麻や木綿、蓮根の畑と塩田を開いている。木綿と蓮根は、18世紀の末に室木村の村本三五郎が備中から種と蓮根を持ち帰ったのが始まりで、蓮根は門前村を中心に広がった。10代の経礼も干拓によって財政の立て直しに成功し、文化8年(1811)には麻里布(まりふ)湊の建設を始めている。いまも尾津開作や仙鳥館開作の南蛮樋には、江戸期の石積みが残る。南蛮樋は、干拓地の水を落とし、潮の逆流を防ぐための樋門である。
順風ばかりではなかった。7代の経倫のころは、諸侯への列格を求める運動と凶作が重なって財政が悪化し、紙の生産高も半減した。倹約が励行され、寛政年間から再建に着手して天保年間に一応の成功をみている。経倫の隠居所である 昌明館 の長屋は、いまも横山に残る。享保2年(1717)には、海岸部の農民が年貢の減免を求めて立ち上がり、領を揺るがす大きな一揆となった。
近世の初めに山あいで起きた事件は、この地に長く記憶された。毛利氏の検地は、山代の石高を天正15年から18年(1587〜90)の5,300石から慶長5年(1600)に11,901石とし、さらに慶長12年(1607)の再検地で28,325石にまで引き上げた。7年で2.5倍である。田の等級を示す石盛を上げ、山の産物にかかる雑税まで石高に繰り入れた、人為的な高直しだった。年貢率はもともと73パーセントと高い。
慶長13年(1608)10月、11人の庄屋を中心に多くの農民が蜂起した。代官所は減税を約して鎮め、年貢率は73パーセントから40パーセントに下げられたという。ところが翌慶長14年(1609)3月29日、出頭した首謀者の庄屋たちは、その場でただちに捕らえられ、 引地峠 の刑場で斬られ、物河土手に首をさらされた。成君寺の近くには、北野孫兵衛のものと伝える首塚が残る。寛文4年(1664)、僧の休伝が追善のために一宇の建立を許され、これが本郷の 建立寺 になったと伝える。11人の庄屋の合同位牌は、いまもこの寺に安置されている。
近世の山陽道(西国街道)は、岩国城下の北およそ2キロメートルを通り、関戸宿から玖珂宿、高森宿と続いた。玖珂と高森は半里しか離れていないが、東に難所の欽明路峠を控えていたため、その手前に宿を置く必要があったという。玖珂本陣・代官所跡の発掘では、18世紀前半の火災で焼けた本陣あるいは代官所の建物が見つかっている。これらは岩国徴古館に伝わる『玖珂御茶屋平面図』に描かれておらず、代官所の初期の建物群と考えられている。
玖西盆地は、一つの盆地が岩国領の玖珂と徳山藩領の高森に分かれており、見えないところで軋轢を生んだという。玖珂には吉川領の代官所と、300軒あまりの店が並ぶ集落があった。山あいへは岩国往来(山代街道)が延び、萩藩の代官所があった本郷から美和・錦見を経て、船着場の今津へと通じていた。
領内の暮らしぶりを伝える事どもも、いくつか残る。岩国のシロヘビの最も古い記録は『岩邑年代記』の元文3年(1738)で、横山の千石原、吉川邸の城門の付近にいたものを門番が捕らえたと記す。『錦川志』の文久2年(1862)には、今津の岩国藩の米倉に2頭が棲みついたとある。米倉の鼠を餌に殖えたらしい。錦川の鵜飼は寛永年間(1624〜44)の記録に現れるといい、およそ400年の歴史をもつとされる。北河内の行波(ゆかば)に伝わる神舞は、寛政3年(1791)から7年目ごとに絶えることなく奉納されてきた神楽で、式年の年には錦川の河原に四間四方の神殿を組み、高さ25メートルの松に演者が這い上がる「八関」を舞う。郷土料理の岩国寿司には、広家が山城での籠城に備えて作らせた保存食が町に広まったという説と、椎尾八幡宮の33年に一度の神幸祭で火の用心の触れが出たことによるという説が伝わる。もっとも領全体としては質素倹約が徹底され、江戸期に始まった華やかな祭りは、いまも岩国にほとんど見あたらないといわれる。
学問の側では、家老の香川正矩が『陰徳記』を編み、その子の 香川景継 が享保2年(1717)に軍記物語『陰徳太平記』全81巻として世に出した。室町12代将軍足利義稙のころから慶長の役までの山陰・山陽を描く大作だが、軍記物語である以上、その逸話をそのまま史実として読むことはできない。吉川家の菩提寺である洞泉寺は、もと宝徳2年(1450)に吉川経信が安芸の新庄大朝に建てた盤目山洞仙寺で、慶長8年(1603)に岩国へ移された。 吉川家墓所 には、広家から12代経幹まで(6代経永を除く)の当主・妻・一族の墓51基が並ぶ。
弘化4年(1847)、12代の吉川経幹が藩校の養老館を開いた。本藩の明倫館にならったものである。錦見に生まれた 東沢瀉 はここで三博士の一人に数えられ、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学んだ。文久3年(1863)に養老館の助教となるが、朱子学中心の学風に合わず1年で辞めている。岩国領の佐幕的な姿勢に飽きたらず、栗栖天山・南部五竹らと必死組を組織して兵制の改革を進め、領内には精義隊・日新隊・建尚隊・敬威隊の4隊が編まれた。しかし精義隊士の乱暴が問題となり、沢瀉と天山は責任をとって自首する。慶応2年(1866)11月17日、両名は沖の 柱島 へ流された。天山はまもなく島を脱し、のちに自ら命を絶っている。
領としての岩国は、当初は幕府寄りの姿勢を崩さなかった。元治元年(1864)、禁門の変ののちの第一次長州征討に際して、経幹は広島藩・福岡藩や征長軍総督の徳川慶勝、参謀の西郷隆盛と交渉し、三家老の切腹を条件に戦わずして事を収めている。三家老の一人である福原越後は、岩国市川西の龍護寺(現・ 清泰院 )で腹を切った。この周旋を、高杉晋作らは宗家への背信と見なした。
だが慶応2年(1866)の四境戦争――第二次長州征討で、岩国の立場は一変する。安芸国との境をなす 小瀬川 が、そのまま幕府軍との戦線になったからである。国境の領は否応なく最前線に立たされ、経幹が最初の総指揮をとって芸州口で幕府軍と交戦し、これを撃退することに貢献した。周旋役から先鋒へ。宙づりの地位のまま260年を過ごした岩国が、ようやく自らの位置を定めた戦いだった。
経幹は慶応3年(1867)3月20日に死去するが、毛利敬親の命によってその死は伏せられた。岩国が正式に藩と認められるのは、幕府が消えたあとのことである。
白熱電球の父を出し、人絹の町は焼かれた
大政奉還の翌年、慶応4年(1868)3月、新政府は岩国を独立した藩として正式に認めた。吉川経幹の死はなお伏せられていたため、経幹は生存しているものとして城主格を与えられ、岩国藩の初代藩主とされる。260年余りにわたって「藩でない領」という宙づりに置かれてきた岩国が、幕府の消滅とともにようやく名を得たのである。
戊辰戦争において、岩国は新政府の側に立って戦った。岩国領主吉川家の家臣の子として生まれた 玉乃世履 は、慶応2年(1866)3月、農民を集めた北門団を組織して洋式の操練を施し、この部隊は四境戦争に出ている。世履は慶応3年(1867)にはさらに日新隊を組織し、12月にこれを率いて上洛、翌慶応4年正月の鳥羽・伏見の戦いののち岩国へ帰っている。柱島に流されていた東沢瀉は、精義隊の戊辰戦争での働きもあって、明治2年(1869)の秋に赦されている。経幹の子の経健は、父の戊辰の戦功によって賞典禄5,000石を与えられた。
明治2年(1869)の版籍奉還で経健は岩国藩知事となり、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県で岩国県が置かれた。同じ年の11月15日、岩国県は山口県に編入される。吉川家は明治2年に華族となったが、明治17年(1884)の華族令では、もともと毛利家の家臣だった家が維新後に諸侯へ列した家と見なされ、他の旧大名家より格下の男爵とされた。子爵に上げられるのは明治24年(1891)、経幹の維新の功が改めて認められてからである。近世を通じて吉川家を縛った陪臣という扱いは、明治になってもなお影を落としていた。
町の名も改まった。明治8年(1875)、岩国城下は岩国町となる。明治12年(1879)1月には行政区画としての玖珂郡が発足し、郡役所は錦見村に置かれた。明治22年(1889)の町村制施行では、いまの市域に岩国町・横山村・麻里布村・川下村・愛宕村・藤河村・北河内村・南河内村・師木野村・灘村・通津村・由宇村・玖珂村・祖生村・高森村・米川村・川越村などが生まれている。明治18年(1885)には、吉川家の居館「 土居 」の跡が吉香公園となり、旧藩の櫓を模した絵馬堂の錦雲閣が建てられた。吉香神社の社殿は、享保年間に横山の白山比咩神社の境内に造られたもので、これも明治18年に現在地へ移されている。
藩が消えて困ったのが 錦帯橋 だった。架け替えの費用をまかなってきた橋出米の仕組みも、橋を所有していた吉川家の権限も、明治とともに失われたからである。明治28年(1895)、管理者を失った橋のために地元の有志が錦帯橋保存会を設立し、掛け替えの資金を募りはじめた。領主の橋は、ここで町の橋になった。
安政4年(1857)に岩国藩士の子として生まれた 藤岡市助 は、養老館、岩国兵学校、岩国英国語学所に学び、白熱電球と電車の実用化に道をひらいて、のちの東芝につながる会社を興した人物である。その市助が郷里に残した仕事が、岩国電気軌道だった。旧城下の岩国市街と、山陽本線の駅が置かれた麻里布の一帯とは離れており、両者を結ぶ足が要る。市助は明治40年(1907)に会社を設立して社長として指導し、明治42年(1909)、その山陽本線の駅と旧城下の新町のあいだを開業させた。中国地方で初めての路面電車で、広島や呉のそれより早い。翌明治43年には電灯電気事業も始めている。会社は合併を重ねて大正13年(1924)に山口県営となり、昭和4年(1929)、国鉄岩徳線が同じ区間に並行して部分開通したため、この軌道は補償を受けて廃止された。
大正14年(1925)、いまの 岩国駅 の周辺にあたる麻里布に、 帝國人造絹糸 の工場が建った。以後、岩国港を足がかりに山陽パルプ工業や東洋紡績が進出し、この一帯は「人絹町」と呼ばれる工業地区として伸びていく。城下町の岩国と、工場と鉄道の麻里布。生い立ちのまるで違う二つの町が並び立つのが、近代の岩国の姿だった。上水道が給水を始めたのも、麻里布の発展にともなう昭和14年(1939)4月のことである。
いっぽう錦川の上流と下流は、川そのものが結んでいた。山で伐り出した材木は出合まで馬車で運ばれ、そこで筏に組まれて岩国へ流された。鉄道の枕木にする材で、切り口を4寸×8寸に揃えたものだったという。筏には出荷者の刻印を1本ずつ押しておく。大水で流されても、刻印があれば持ち主のもとへ返ってくるからである。筏乗りは出合から美川の舟津までは2人、舟津から岩国までは1人が乗った。人と荷を運ぶ川舟もあり、炭を積んで岩国へ下り、帰りは塩や生活の品を積んで上ってくる。錦川の舟運がさかんだったのは、大正の中ごろまでのことだった。
山の産業では、二鹿の 喜和田鉱山 が明治のあいだ銅山として動いていた。明治42年(1909)、それまで捨てていた石くずの中から大量の灰重石が見つかる。タングステンの鉱石である。この発見によって鉱山はタングステンの一大産地として脚光を浴び、明治44年(1911)に粟村工業所が買収して、以後はタングステン鉱山として操業した。海沿いの由宇は周東地方の米の集散地として、廻船問屋・汽船会社・米問屋・精米業が栄え、由宇銀行が設立されている。由宇は大正15年(1926)に、玖珂は大正13年(1924)に町制を施行した。玖珂については「小藩の領下で貧しく、明治10年代にはハワイへの契約移民を多く出し、日露戦争後には朝鮮移住者も少なくなかった。また子弟の教育には熱心で、教育村でもあった」と伝えられている。士族の側では、旧岩国藩士族の授産事業として義済堂が設立された。はじめは岩国半紙など藩の代表的な産物で仕事を興そうとしたが、やがて織物工場に特化して伸びていく。
この時代の岩国は、驚くほど多くの人材を送り出した。初代の大審院長となった玉乃世履、帝国図書館の初代館長となった 田中稲城 、「美しき天然」を作曲した 田中穂積 、三十年式歩兵銃を設計した 有坂成章 。少年期を岩国で過ごした 国木田独歩 は、「河霧」「画の悲しみ」など岩国を舞台にした作品を残している。
町の宝も国のものとなった。大正11年(1922)3月、錦帯橋が名勝に指定される。大正13年(1924)12月には、錦川をはさむ今津・麻里布と川下の一帯が「白ヘビ生息地」として天然記念物に指定された。ヘビの白色変種が安定した遺伝形質を保ったまま特定の地域に集中して棲む例は、世界にほかにない。
昭和に入ると、この町の性格は大きく変わる。昭和13年(1938)4月、海軍が錦川の三角州で飛行場の建設に着手し、昭和15年(1940)7月に岩国海軍航空隊が開かれた。主として教育隊・練習隊の基地である。昭和18年(1943)11月には海軍兵学校の岩国分校が開校した。沖に浮かぶ柱島の周辺は連合艦隊の泊地となり、昭和18年(1943)6月8日、戦艦「陸奥」が柱島の南西沖およそ2キロメートルで原因の分からない爆発を起こして沈んでいる。
昭和15年(1940)4月1日、玖珂郡の岩国町・麻里布町の2町と、川下村・愛宕村・灘村の3村が合併して 岩国市 が発足した。生い立ちの違う二つの町が、ここで一つの市になったのである。翌昭和16年(1941)9月17日、合併後の市議会で18万円の赤字が説明され、西村市長と助役は財政の立て直しがなるまで年俸を辞退した。この種の給与返上は全国で初めてだったという。
戦局が悪化し、本土が空襲にさらされるようになると、燃料と航空機を抱えるこの町は標的になった。昭和20年(1945)5月10日午前9時45分ごろ、岩国と和木にまたがる 岩国陸軍燃料廠 がB-29の爆撃で壊滅する。昭和14年に着工し昭和17年から航空燃料と航空潤滑油を造っていた施設で、隣接する麻里布製油所と合わせて356人が命を落とした。そのなかには、旧制岩国中学・岩国高等女学校・安下庄中学から動員された学徒が含まれている。
そして終戦の前日、昭和20年(1945)8月14日、今度は岩国駅の周辺が集中的に爆撃された。『岩国市史』は、死者517人・行方不明30人・負傷859人・全壊543戸・半壊343戸・罹災5,911人という数字を記す。5月の燃料廠と8月の 駅前 。岩国の空襲は、標的も被害の性格も異なる2つの出来事として記憶されている。
その戦火のさなかに完成した建物もあった。 岩国徴古館 である。吉川重吉の「郷土に図書館と博物館を」という遺志を受けて昭和15年(1940)に設立が決まり、昭和17年に着工、昭和20年(1945)3月に竣工した。灯火管制のため窓を極力減らし、天窓から自然光を採る設計で、手がけたのは旧制岩国中学出身の建築家、佐藤武夫である。戦争の末期から戦後にかけては陸軍燃料廠の治療所や図書館として使われた。
276年ぶりに流された橋を、また木で架ける
昭和20年(1945)9月、米海兵隊が進駐して岩国の飛行場を接収した。翌昭和21年2月からはイギリス連邦占領軍が基地を使い、英・豪・ニュージーランド・インドの空軍と米空軍が駐留する。昭和23年に基地は豪空軍へ移管され、占領軍への補給を兼ねた民間の定期便も乗り入れた。昭和27年(1952)には米空軍が、昭和29年には米海軍が使用し、昭和32年(1957)3月からは海上自衛隊も共同で使うようになる。昭和33年(1958)、米側の管理は海兵隊へ移り、以後この基地は米海兵隊岩国航空基地となった。
昭和22年(1947)12月5日には、昭和天皇の戦後巡幸が岩国に及んだ。天皇は国立岩国病院、引揚者による林業の事業体である岩国興業組合、山口県岩国更生会館、岩国東小学校、そして引揚者の住宅地となっていた太刀洗航空廠の跡地をまわっている。同じころ、岩国の沖で爆撃を受けて廃船になっていた巡洋艦「平戸」が、駐留していたイギリス連邦占領軍の命で引き揚げられ、船体に浚渫の土砂を詰めてヨットハーバーの防波堤とされた。いまも軍艦防波堤と呼ばれている。
昭和25年(1950)9月14日、キジア台風によって 錦帯橋 がほぼ完全に流された。延宝2年(1674)の再建から276年、一度も流れなかった橋である。原因としては、戦時中に十分な補修ができなかったこと、松根油を採るなどして上流の森が伐られ保水力が落ちていたこと、そして前年に米軍が基地の滑走路を広げるため橋の近くから大量のバラスを採り、河床の落差が大きくなっていたことが挙げられている。
復旧にあたっては、コンクリートで架け直す案も出た。だが市民が求めたのは木の橋だった。昭和26年から工事にかかり、昭和28年(1953)に木造で再建される。江戸期から続いてきた「同じ形を作り直す」という営みが、戦後の岩国でもう一度選ばれたのである。
災害はなお続いた。昭和26年(1951)10月のルース台風では、錦川流域の玖珂郡で死者・行方不明309人、家屋の流出1,159戸、橋の流出587か所という被害が出ている。以後、この川では治水の工事が盛んになった。
昭和30年(1955)4月1日、玖珂郡の小瀬村・藤河村・御庄村・北河内村・南河内村・師木野村・通津村が岩国市へ編入された。同じころ周辺の町村も再編され、高森町・祖生村・米川村・川越村が周東町に、広瀬町・深須村・高根村が錦町に、秋中村・賀見畑村が美和村(のち美和町)に、河山村・桑根村が美川村(昭和34年に町制)になっている。昭和37年(1962)3月21日には、麓からの見え方を重んじて本来の位置より約30メートル南に、鉄筋コンクリートの復興天守が建てられた。設計は藤岡通夫。本来の天守台は平成7年(1995)の発掘で確認され、復元されている。
山あいの町にも鉄路が届いた。錦町は長く錦川の舟運に頼る山あいの町だったが、大正以来の要望が実り、岩日線が昭和35年(1960)11月に川西から河山まで、昭和38年(1963)10月には錦町まで開通する。町はシャギリやカーニバルでこれを祝った。岩日線は昭和62年(1987)7月25日に第三セクターの錦川鉄道錦川清流線へ転換された。未成に終わった岩日北線のうち、錦町から雙津峡温泉まで完成していた路盤は、ゴムタイヤの遊覧車「とことこトレイン」として使われ、平成16年(2004)に日本鉄道賞を受けている。
昭和33年(1958)4月、小瀬川をはさんで岩国・和木と広島県大竹にまたがる三井石油化学工業の岩国大竹工場が操業を始めた。エチレンの年産2万トン、日本で最初の総合的な石油化学コンビナートである。その敷地は、空襲で壊滅した岩国陸軍燃料廠の跡地だった。日本製紙岩国工場、 帝人岩国事業所 も加わり、この一帯は瀬戸内工業地域の一角をなしていく。
山の資源も戦後を生き延びた。喜和田鉱山は、昭和21年(1946)に戦争の終結でタングステンの需要が減って休山し、昭和31年に再開、昭和37年に再び休み、昭和43年にまた再開と、市況に翻弄されながら操業を続けた。第11鉱体はタングステンの含有率が平均8〜10パーセント、最大で約50パーセントに達し、世界でも最も高品位の鉱床の一つとして知られる。紫外線を当てると坑道が神秘的に光る様子は「地下の天の川」と紹介された。平成4年(1992)に操業を休止し、平成17年(2005)に事実上閉山する。日本で最後のタングステン鉱山だった。隣の玖珂鉱山は選鉱をやめたのち、平成8年(1996)から観光坑道「地底王国美川ムーバレー」となっている。
岩国空港は昭和26年(1951)にGHQが国際飛行場に指定し、一般の民間航空にも開かれたが、昭和36年の広島空港の開港と昭和39年の広島−岩国線の運休で、民間の定期路線は消えた。昭和45年(1970)7月4日には、ベトナム戦争下の基地の中で、米軍内の人種差別と反戦の気運を背景にアフリカ系の兵士や反戦の兵士による暴動が起き、営倉などが一時占拠されている。
平成18年(2006)3月12日、米軍再編にともなう空母艦載機部隊の岩国移転をめぐって、旧岩国市で住民投票が行われた。結果は反対票が賛成票を大きく上回った。それでも計画は進み、平成29年(2017)には米海兵隊のF-35Bが配備され、同じ年から米海軍第5空母航空団の各飛行隊が厚木から移駐して、平成30年(2018)3月に空母艦載機の移駐が完了する。基地は 岩国飛行場 ・愛宕山地区・祖生通信所を合わせておよそ867万平方メートルに及び、そのほぼ全体が岩国市域にある。いっぽう平成24年(2012)12月13日には、48年ぶりに民間の定期便が再開し、岩国錦帯橋空港が開港した。
平成18年(2006)3月20日、旧岩国市と玖珂郡の由宇町・玖珂町・本郷村・周東町・錦町・美川町・美和町が合併し、 いまの岩国市 が生まれた。面積は約874平方キロメートル。本郷村は山口県で最後まで残った村であり、玖珂町は県内で最後まで市町村の分合を経験しなかった自治体だった。合併後も旧町村の名は残ったが、読みが「〜ちょう」から「〜まち」に変わっている。錦川の下流の城下町と、玖西の盆地と、玖北の山あい――近世には別々の領主に分かれていた地域が、ここで一つの市域におさまった。
橋は、いまも架け替えられ続けている。平成13年から16年(2001〜2004)にかけて、およそ50年ぶりの「平成の架替」が行われた。総工費はおよそ26億円。木材はすべて国産、設計と測量は尺貫法で行い、締金具や釘にもたたら鉄を再現したものを用いた。平成17年(2005)の台風14号では第一橋の橋脚2基が流されて復旧している。同じ台風では錦川が氾濫し、美川町の南桑地区を中心に多くの世帯が浸水した。市は「錦帯橋用材備蓄林200年構想」を掲げ、200年先の架け替えに使う木を育てるための植林を続けている。平成26年(2014)8月には、台風12号の集中豪雨で新港町に土砂災害が起き、1人が亡くなった。
令和3年(2021)10月11日、「錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観」が、山口県内で初めて国の重要文化的景観に選定された。錦川・城山・横山地区・岩国山・岩国地区がその構成要素である。橋と城山と川筋が一体のものとして守られることになったわけで、広家が城下を設計してから400年余りを経ての評価である。昭和27年(1952)には長い中断を経て錦川の鵜飼も復興している。
この土地はまた、多くの書き手と学者を送り出した。岩国に生まれた作家の 宇野千代 は生家が残り、 鞍掛合戦千人塚 の追悼碑にその筆をとどめる。経済学者の 河上肇 、文芸評論家の河上徹太郎、古筆学者の小松茂美、数学者の 広中平祐 、参議院議長を務めた 重宗雄三 、漫画家の弘兼憲史。周東町で創業した旭酒造の「獺祭」は、山あいの小さな蔵から世界に知られる酒となった(令和7年=2025年に社名を「獺祭」へ改めている)。
藩と呼ばれなかった3万石が架けた5つの弧は、いまも錦川をまたいでいる。
WEB 用田遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 河池遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
PDF 臼田古墳(玖珂町教育委員会 2001 発掘調査報告書) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 阿品遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 郷遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 臼田遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 本郷町の概要(旧本郷村の沿革) 岩国市
WEB 岩国平野の地形環境と土地開発:予報(宮本真二, 半田山地理考古7, 2019) 岡山理科大学
WEB 清水遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 奥ヶ原遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 上久宗遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 臼田古墳(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 用田古墳群(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 筏山古墳・筏山遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
PDF 岩国城御土居跡(岩国市教育委員会 2022 発掘調査報告書) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 西土生遺跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 中津居館跡の概要 岩国市文化財課
WEB 中津居館跡発掘調査の主な成果(平成20-23) 岩国市
WEB 中津居館跡(岩国市教育委員会 発掘調査報告書) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 鞍掛山城跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 錦帯橋の歴史 第一章〜第四章(岩国市公式・錦帯橋サイト)
WEB 名勝 錦帯橋 概要と歴史・年表(岩国市 錦帯橋世界遺産推進)
WEB 岩国藩の活躍と悲願成就(岩国市観光振興課) 岩国市
WEB 岩国の歴史(岩国市観光振興課) 岩国市
PDF 干拓の歴史 リーフレット 岩国市教育委員会
WEB 岩国城跡(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 錦帯橋のう飼(岩国市観光振興課)
WEB 胡桃沢勘司「前代内陸交通の凝集:周防山代地方を事例として」近畿大学文芸学部論集10-1, 1998 近畿大学
PDF 維新後の近代産業化に関する一考察(山口大学リポジトリ・義済堂と岩国半紙) 山口大学
WEB 岩国のシロヘビ(いわくに文化財探訪) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
WEB 柱島(岩国市観光振興課) 岩国市
WEB 岩国基地の概要・沿革 岩国市
WEB 海上自衛隊 岩国航空基地 基地の沿革 防衛省
PDF 岩国地域1市6町1村 合併の変遷 岩国市
PDF 中津居館跡(岩国市教育委員会 発掘調査報告書) 岩国市文化スポーツ振興部文化財課
岩国に住む人、育った人、これから訪れる人へ。この街の歩みを、ぜひ教えてあげてください。
氷期の終わりの石の槍先が残る。
玖北で縄文を語る大きな成果に。
玖珂の盆地に稲作の跡が現れる。
貯蔵穴も伴う盆地のムラが営まれる。
高地性集落から鉄製品40点余。
県内初の出土となる中期の古墳群。
天武10年、瑞祥として都へ運ぶ。
国家が田を測り租を割りあてる。
山陽道が周防で最初に馬を継ぐ。
保元2年、後白河法皇の家産に入る。
文治3年、平氏の家人として載る。
建長2年、清縄良兼が社を建てる。
延慶2年、大内氏が寺を建てたと伝わる。
土塁が囲む2万平方メートルの館。
毛利方が進駐し250年の館が絶える。
石高5,300石が高直しの起点に。
関ヶ原の代償に周防の東端へ移る。
慶長13年、4重6階の城が竣工。
高直しに抗した11人が斬られる。
築城7年の山城が取り壊される。
延宝元年6月28日鍬入れ、10月完成。
同じ年に架け直し、276年流れず。
四境戦争で小瀬川が戦線となる。
慶応4年、260年余の宙づりが解ける。
岩国電気軌道が麻里布と新町を結ぶ。
帝國人造絹糸が建ち工業地区に。
5月10日の空襲で356人が犠牲に。
8月14日、死者517・罹災5,911人。
9月、基地の町としての戦後が始まる。
キジア台風が5つの弧を押し流す。
玖北・玖西と城下町が合わさる。
山口県内で初の重要文化的景観に。
鎌倉中期の岩国の領主で、のちにこの地を治める弘中氏の先祖とされる。建長2年(1250)、遠石八幡宮の神霊が白鷺となって室木に降りたと知り、今津の琵琶首に社を建てたのが白崎八幡宮の始まりだと伝える。
南北朝期に岩国荘を支配した在地領主。清縄を改めて弘中を名乗ったと伝え、貞和4年(1348)には岩国荘の鎮守として白崎八幡宮に社領を寄進し、社を白崎山へ遷した。以後、一族が代々大宮司を務めたという。
周防・長門などを治めた守護大名。岩国の弘中隆兼を重臣として用い、周防東端のこの地を家臣の山城で固めた。天文20年(1551)、陶隆房の謀反により大寧寺で自害し、その死が岩国を戦乱へ引き込んだ。
大内義隆に仕えた重臣で、岩国の亀尾城を居城として当地を治め、白崎八幡宮の大宮司も世襲したと伝える。天文24年(1555)、陶氏の依頼で江良房栄を琥珀院に誅し、同年の厳島の戦いで陶方として討死した。
大内氏の家臣で、玖珂の鞍掛山城に拠った城主。厳島の戦いののち毛利元就に降ったが、蓮華山城の椙杜隆康から大内方への内通を訴えられて攻められ、弘治元年(1555)父とともに討死した。
玖珂の蓮華山城に拠った国人領主。大内氏に属したのち毛利氏に通じ、弘治元年(1555)には隣の鞍掛山城主 杉隆泰の内通を訴えて毛利軍を招き入れ、自城の側から城の背後を突かせた。
大内氏の重臣。天文20年(1551)に主君 大内義隆を討って実権を握り、隆房から晴賢と改めた。岩国の弘中隆兼を配下として安芸へ攻め入るが、弘治元年(1555)厳島で毛利元就に敗れた。
安芸の国人から中国地方の大半を制した戦国大名。厳島で陶晴賢を破るとただちに周防へ攻め入り、弘治元年(1555)の鞍掛合戦で玖珂の諸城を落として、周防の東端にあたるこの地を毛利氏の領国に組み入れた。
毛利元就の孫で毛利家の当主。関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担がれ、戦後は8か国から周防・長門の2か国に削られた。慶長5年(1600)、玖珂郡など3万石を吉川広家に分知して岩国領を置いた。
毛利元就の孫。関ヶ原の戦いで徳川方に通じて毛利家の存続に働き、その代償に周防東端の3万石を分知された。慶長6年(1601)に岩国へ入り、錦川の横山に城と御土居を、対岸の錦見に城下町を開いた。
吉川広家の長男で、慶長6年(1601)に由宇村の館で生まれた岩国領2代領主。寛永17年(1640)に紙の法を定めて岩国半紙を専売とし、これを小さな領の財政を支える柱に育てた。
岩国領3代領主。洪水のたびに流される橋に悩み、川中に橋脚を立てない工法を求めて、明僧 独立性易のもたらした『西湖遊覧志』の図に着想を得たと伝わる。延宝元年(1673)、5連の錦帯橋を架けた。
岩国領の吉川家に仕えた家臣で、宣阿と号した歌人。家老の父 香川正矩が遺した『陰徳記』を受け継いで書き改め、享保2年(1717)に軍記物語『陰徳太平記』全81巻として世に出した。
岩国領12代領主。弘化4年(1847)に藩校の養老館を開いた。慶応2年(1866)の四境戦争では自ら総指揮をとり、芸州口で幕府軍を退ける。没後に死は伏せられ、岩国藩初代藩主とされた。
錦見に生まれた陽明学者。江戸で佐藤一斎らに学び、藩校養老館の三博士に数えられた。領の佐幕的な姿勢に飽きたらず必死組を組織したが、隊士の乱暴の責を負って慶応2年(1866)柱島へ流された。
岩国領主吉川家の家臣の子として生まれた司法官。慶応2年(1866)に農民を集めた北門団を組織して洋式の操練を施し、翌年には日新隊を率いて上洛した。維新後は司法の道に進み、初代の大審院長を務めた。
岩国藩士の子に生まれた技術者。白熱電球と電車の実用化に道をひらき、のちの東芝につながる会社を興した。明治40年(1907)には郷里で岩国電気軌道を設立し、中国地方初の路面電車を走らせた。
岩国に生まれた陸軍軍人・銃器設計者。明治30年(1897)に制式となった三十年式歩兵銃を設計して国産小銃の礎を築き、砲の開発にも当たった。近代の技術者を数多く送り出したこの町を代表する一人である。
岩国に生まれた図書館学の先駆者。欧米の図書館制度を学んで帰国し、帝国図書館の初代館長を長く務めて、日本の近代図書館の基礎を築いた。
岩国に生まれた海軍軍楽長・作曲家。軍楽隊を率いるかたわら唱歌を手がけ、日本で最も早い時期のワルツとされる「美しき天然」を作曲して、全国で長く歌い継がれる歌を残した。
千葉県に生まれ、司法省の役人だった父の転任に従って少年期を山口県で過ごした作家。岩国では錦見小学校に学び、のちに「河霧」「画の悲しみ」など、この町を舞台にした作品を書いた。
岩国に生まれ、旧制岩国中学から東京帝国大学に進んだ経済学者。京都帝国大学で経済学を講じ、『貧乏物語』で貧困の問題を世に問うたのち、マルクス経済学の研究と社会運動に生涯を投じた。
岩国に生まれた作家。「おはん」などの小説で知られ、着物の意匠や随筆でも広く読まれた。98年の生涯を通じて郷里との縁を保ち、鞍掛合戦の戦死者を葬ると伝える千人塚の追悼碑に自ら筆をとっている。
岩国に生まれた政治家。実業を経て戦後の参議院議員となり、昭和37年(1962)から9年にわたって参議院議長を務めた。長く参議院に勢力を保ち、戦後の国政に重きをなした岩国出身者の一人である。
玖珂郡由宇町、いまの岩国市に生まれた数学者。代数幾何学の難問「特異点の解消」を解き、昭和45年(1970)に日本人で2人目のフィールズ賞を受けた。のちに山口大学の学長を務めている。
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