益田市の歴史を年表、人物、地図でたどる。観光スポットも紹介
发布时间:2026-09-22 | 浏览:1
県内最古の一片は、匹見の谷にあった
益田市域で人の営みがもっとも古くさかのぼるのは、日本海に開けた河口の平野ではなく、南へ深く分け入った山あい——匹見(ひきみ)である。
匹見町道川の 新槙原遺跡 は、はじめ縄文土器が出土した場所として調べられた。ところが土層をさらに掘り下げたところ、人の手で加工されたことが明らかな小さな石のかけらが現れる。これが旧石器時代の遺跡としての発見だった。年代はおよそ2万2000年前から2万3000年前にさかのぼり、島根県内でもっとも古い遺跡のひとつに数えられる。県の史跡に指定された旧石器時代の遺跡は、県内でここだけである。
なぜ人はまず山に入ったのか。西中国山地の匹見一帯には落葉広葉樹の森が広がり、木の実と、それを餌とする中小の動物が豊かだった。いっぽう、のちに市街地が広がる河口一帯には、このころまだ平野そのものが形づくられていない。氷期の海面は今よりはるかに低く、益田川と高津川の下流が潟湖(せきこ)をたたえた水辺になるのは、氷期が明けたのちのことである。人が腰を落ち着けられる場所は、まだ限られていた。
市域で確かめられている旧石器時代の足跡は、いまのところこの匹見の谷に限られる。そしてこの谷では、以後の縄文・弥生から古墳の時代まで、人の暮らしが途切れることなく続いていく。
縄文銀座と呼ばれた、匹見の谷々
旧石器の狩人が足跡を残した匹見の谷には、続く縄文時代の遺跡がおびただしく残された。平成20年(2008)の時点で確認されたものは65か所。市の計画書はこの集中ぶりを指して、西日本の「縄文銀座」と呼ぶ人もいると記す。
市の史跡に指定されたものだけでも、田中ノ尻(早期〜前期)、上ノ原(早期)、中ノ坪(前期)、石ヶ坪(中期〜後期)、上家屋(後期)、水田ノ上(晩期)、ヨレとイセ(晩期〜弥生)と、ほぼ全期間にわたって谷ごとに遺跡が並ぶ。落葉広葉樹の森が実らせる木の実と、川と、獣。この山あいは縄文の人びとにとって、よほど住みよい土地だったらしい。
暮らしの手ざわりも残っている。 田中ノ尻遺跡 では、およそ1万年前の集石炉——焼いた石を敷き詰めた調理の場と考えられる遺構——が見つかった。ヨレやイセなど数か所では、竪穴住居の近くにトチの実をたくわえた貯蔵穴が掘られている。渋を抜き、粉にひいて食べたのであろう木の実の備えが、そのまま土に残された。
氷期が明けて海面が上がると、河口一帯には内湾のような水域が生まれ、7800年前から6000年前ごろにもっとも広がった。この潟湖のほとりにも、遺跡が姿を見せはじめる。安富王子台遺跡は縄文晩期から弥生前期にかかる、益田地区でもっとも古い遺跡のひとつであり、若葉台遺跡では獣を捕らえる落とし穴が検出された。そして匹見の 水田ノ上遺跡 は、石を集め、並べた遺構をもつ縄文晩期の祭りの場と考えられている。この山の祭場が、次の時代に思いがけない品を迎えることになる。
山あいの祭場に届いた、朝鮮半島系の銅戈
匹見町紙祖(しそ)の 水田ノ上遺跡 は、石を集め並べた縄文晩期の祭場である。その遺跡から、弥生時代の細形銅戈(さいけいどうか)の切先が出土した。銅戈は柄に直角に取り付ける青銅の刃で、細形のものは朝鮮半島から北部九州へ入り、有力者の副葬品として扱われる例が多い。海から遠く隔たった西中国山地の谷にも、はるかな地の器物が届いていたことになる。
平野では、高津川の中流に開けた安富平野のほぼ中央に、 中小路遺跡 (益田市安富町)が営まれた。弥生時代後期を中心とする大きな集落跡で、円形の竪穴建物が数多く、中央にはたいてい炉のくぼみがある。建物は幾度も建て替えられており、長く住み継がれたことがわかる。出土した石包丁は稲の穂を摘む道具、土錘(どすい)は網の重り。稲作と漁労の両方が営まれていた。
注目されるのは土器である。出雲や広島、山口に多く見られる形のものが混じっており、この地が山陰と瀬戸内の双方に向かって開いていたことを示す。安富平野には羽場遺跡や安富王子台遺跡など、ほかにも弥生の集落が知られ、中小路遺跡はその中心をなす拠点だったと考えられている。
この遺跡では、口を合わせた2つの甕を丁寧に埋めた土器棺墓がまとまって見つかった。甕の大きさから、子どもの墓と考えられている。弔いの手つきが、2000年の時を越えて伝わってくる。
河口はどうであったか。益田川河口の低地にある 沖手(おきて)遺跡 では、のちに中世の港町となる地層の下から丸木舟が2艘見つかっている。市教育委員会の報告は縄文時代晩期の地層からの出土とし、弥生時代中期前葉にくだる可能性も指摘されている。いずれにせよ、あたりには潟湖が広がり、それを舟で渡る人びとがいた。水面をゆく舟と、山あいに届いた青銅——益田の歴史を貫く「海の道」は、すでにこの時代に芽を出していた。
四塚山の鏡に始まり、久城の丘に極まる
古墳の時代、益田川と高津川にはさまれた平野の丘陵には、石見でも屈指の墳丘が次々と築かれた。その系譜は、一枚の鏡から始まる。
昭和47年(1972)、下本郷(しもほんごう)の 四塚山古墳群 から一枚の鏡が見つかった。4世紀前半に作られた三角縁神獣鏡で、同じ鋳型から作られたとみられる鏡が全国で10面知られ、大和の王権から配られた品と考えられている。鏡を納めた古墳そのものはすでに失われていたが、この地の首長が早くから畿内と結ばれていたことを、鏡だけが証している。
4世紀後半、日本海を見晴らす遠田町の丘陵の尾根に、 大元1号墳 が築かれた。全長約85メートル、後円部の高さ7メートル。2段に築かれた墳丘には葺石(ふきいし)がめぐり、埴輪も立てられていた。石見地方でも最大級の古墳として、令和2年(2020)に国の史跡となっている。
そして4世紀後葉、久城(くしろ)の丘陵のほぼ中央に、 スクモ塚古墳 が現れる。全長約98メートル。石見はもちろん、島根県内でもっとも大きな前方後円墳である。前方部の上には壇状の高まりが設けられ、後円部の斜面には石が葺かれ、墳頂とテラス、そして壇の上には円筒埴輪が並べられていた。昭和14年(1939)に郷土史家の手で見いだされて昭和16年(1941)に国の史跡となり、墳丘の形が確かめられたのはずっとのち、令和4年(2022)の市教育委員会の調査によってである。それまでは、大きな円墳に方墳が接した墳丘とも、5世紀の築造とも見られていた。
6世紀に入っても勢いは衰えない。乙吉(おとよし)の 小丸山古墳 は全長約52メートル、標高40メートルほどの山頂から益田平野を一望する位置にあり、周囲を濠と堤がめぐる。この構えを備えた古墳は石見でここだけである。遠田町の海に突き出た岬には、6世紀後半から7世紀にかけて鵜の鼻古墳群が築かれ、いまも約30基が確認できる。
山あいも例外ではなかった。匹見の和田・江田・田原、あるいは 牛首古墳 のように、谷ごとに小さな古墳が点在する。海に開いた平野の大首長と、山を押さえた新興の勢力。この二重の広がりが、のちに石見の西端を支える力の姿だった。
三角持送りの石室、海の向こうと通じる技
遠田町の岬に築かれた 鵜の鼻(うのはな)古墳群 は、6世紀後半から7世紀にかけて営まれた。全長30メートルほどの前方後円墳4基と一辺13メートルの方墳1基を含む約30基からなり、保存のよい19基が県の史跡に指定されている。
群の大半を占めるのは直径10メートル前後の円墳で、長さ4〜6メートルの横穴式石室をもつ。細長い玄室に、片側へ寄せて羨道(せんどう)がつく形が多いが、なかには側壁と奥壁に石を三角形に架け渡した「三角持送り」の構造をとるものがある。同じ技法は北九州や朝鮮半島の高句麗の古墳にも見られる。日本海に突き出たこの岬が、対岸と技術を交わす位置にあったことを、石の積み方が語っている。
この頃から、丘陵の斜面を横に掘り込む横穴墓も広がった。石見では大田市とこの益田市の付近にまとまって分布し、市内にも南長迫横穴群などが知られる。市の西部で唯一見つかった研石(とぎいし)横穴は、平成9年(1997)に調査され、玄室は長さ2.4メートル・幅2.48メートル。木の棺を留めた釘とみられる金属片と、7世紀後半から8世紀ごろの須恵器の坏(つき)と長頸壺(ちょうけいこ)が置かれていた。大古墳の主ではなく、小さな集団を率いた者の墓である。巨大な墳丘の時代は、静かに終わろうとしていた。
その頃、中央では律令の国づくりが進んでいた。石見国は、古墳時代の石見国造(いわみのくにのみやつこ)の勢力を引き継いで7世紀の国として整えられる。ただし国府も国分寺も、置かれたのは那賀郡——現在の浜田市域であって、この地ではない。益田は石見の西の端、美濃郡(みののぐん)として、都から遠い辺境の入口に位置づけられた。
節婦の名が、都の正史に記された郡
石見国の西端に置かれた美濃郡は、三本の川がつくる平地「三野」に由来する郡名と伝える。のちに編まれた『和名類聚抄』は、この郡に都茂(つも)・益田・苓気・山田・山前・大農・美濃・小野の8つの郷を載せる。益田・吉田の一帯には、田を方形に区切る条里の地割が確認されており、律令の田制がこの西端の平野にも及んでいたことがわかる。
この郡の名は、都で編まれた国の正史にも記された。神護景雲2年(768)2月、美濃郡の 額田部蘇提売 (ぬかたべのそでめ)が朝廷から表彰され、生涯にわたって田租を免ぜられている。長く寡婦を通して節義を守り、蓄えた財をたびたび貧しい者に分け与えたと伝えられる。地方の一女性の行いが正史に載ること自体まれで、石見の西端に暮らす人の名としては、これがもっとも古い記録のひとつである。
信仰の場も整えられていった。染羽(そめは)の地の 染羽天石勝神社 は、社伝で神亀2年(725)の創建とし、のちに滝蔵権現と称された。久城の 櫛代賀姫(くしろかひめ)神社 は天平9年(737)に社殿が建てられたと伝える。いずれも、古代の益田平野で人びとが寄り集まった核であった。
鴨島は波に消え、社だけが残った
承和10年(843)、美濃郡の西部が割かれて鹿足(かのあし)郡が立てられた。石見の西端はここで二つに分かれ、以後の郡の枠組みが定まる。
山では、鉱脈が朝廷の目にとまった。元慶5年(881)、美濃郡都茂郷の丸山で銅を産したことが『日本三代実録』に記され、朝廷が検察を行っている。これが 都茂鉱山 の名の初出で、以後1100年を越えて掘り継がれることになる。のちに石見銀山へ技術者が移り、佐毘売山(さひめやま)の神の信仰もともに伝わったと語られる。
延喜式に載る石見国の神社のうち、この郡には5つの小社があった。菅野天財若子命、佐売山(現在の 佐毘売山神社 )、染羽天石勝命、櫛代賀姫命、小野天大神之多初阿豆委居命——その多くは今日まで社地を伝えるが、菅野天財若子命神社だけは、比定される社がいまも分かっていない。
そしてこの土地には、ひとりの歌人の影が長く落ちている。 柿本人麻呂 は晩年に石見国へ下り、鴨山で世を去ったという伝承をもつ。益田川の河口——かつての高津川の河口にあたる——の沖にあったという島、鴨島に人麻呂を祀る社が創祀されたのが、 高津柿本神社 の起こりと伝える。高津・戸田のあたりは古く美濃郡小野郷であり、小野氏の支族が柿本氏だったともいう。戸田には、人麻呂の生誕地とする伝承も残る。
その鴨島を、海が呑んだ。万寿3年(1026)5月、益田の沖を震源とする大地震と津波が石見の海岸を襲ったと伝わる。鴨島は水没し、五福寺と総称された安福寺・妙福寺・福王寺・蔵福寺・専福寺が流されたという。波は河口から16キロメートルもさかのぼり、寺垣内まで達したと語り継がれた。地震の規模はマグニチュード7.5から7.8ほどと推定され、益田平野の地層を掘る調査では11世紀前半ごろの津波の堆積物が確かめられている。いっぽう海底の調査では、鴨島の跡と断定できる地形はまだ見つかっていない。
波が引いたのち、流された神像が高津の松崎に漂着し、そこに社殿が建て直されたのが今日の高津柿本神社の由緒である。櫛代賀姫神社も、大同元年(806)に鎌手大浜浦から遷った先が高波で海に呑まれ、明星山の現在地へ移ったと伝える。災害の記憶が、そのまま神社の来歴になった。
その一方で、河口には新しい賑わいが生まれていた。益田川右岸の 沖手遺跡 には平安時代の末に港湾の集落が成り立ち、11世紀後半から13世紀前半にかけて中国大陸からもたらされた貿易陶磁が大量に流れ込んだ。島根県内では例外的なこの遺跡について、博多よりも早い時期に街区を形づくっていたとの指摘さえある。中世の益田を支える湊は、平安の終わりにはもう動き出していた。
摂関家の荘園に、御神本の一族が入る
中世の益田は、摂関家の荘園として歴史に姿を現す。益田庄は皇嘉門院(こうかもんいん)の所領で、治承4年(1180)の惣処分状——所領を誰に譲るかを書き上げた文書——に「いわみ ますた」と記された。その範囲は現在の益田市の東半分から、三隅・美都、さらに浜田市の西部にまで及ぶ広大なものだった。
この庄に入ったのが、のちの益田氏である。石見国司として下った藤原国兼が那賀郡伊甘郷(現在の浜田市域)に土着して御神本(みかもと)氏を称し、その曾孫にあたる 兼高 の代に本拠を益田へ移して益田氏を名のったと伝える。元暦元年(1184)の源範頼下文案には父の兼栄が、翌年の源義経下文案には兼高の所領として益田庄が見える。
もっとも、兼高が源頼朝から石見国押領使——国内の武士を率いて治安の維持にあたる役——に任じられ、国内の3分の1を領したという有名な話は、慎重に扱われている。これを伝えるのは南北朝時代に作られた「紛失状案」——焼失や紛失で失われた文書の内容を、後になって書き上げた写しの控え——であり、鎌倉初期の一次史料ではないからである。史料の上で確実にたどれるのは、その子にあたる兼季の代からとされる。
その兼季が建仁3年(1203)に幕府へ提出した申状の控えには、益田郷・納田郷・井村・弥富名の4か所が挙がる。貞応2年(1223)の石見国惣田数注文になると、本郷・納田・井村・弥富に乙吉を加えた5つの単位が並び、うち乙吉だけは一族の乙吉氏が別に支配していた。荘園の内側で、一族が細かく所領を分け合っていたことがわかる。
居館と城も置かれた。通説では建久4年(1193)に兼高が標高118メートルの七尾山に城を築いたとされるが、確かな史料に城が姿を見せるのは南北朝時代からで、築城の時期には諸説がある。のちに一族の館となる 三宅御土居(みやけおどい)跡 からは、13世紀の木を組んだ井戸の跡や、12世紀から16世紀にかけての掘立柱建物が出土しており、この時期からすでに人の営みがあったことを示す。
一族はよく枝分かれした。兼高の次男は三隅氏、三男は福屋氏を興し、兼季の代の分封からは周布氏らが生まれる。石見の各地に広がったこの庶家たちが、やがて南北朝の内乱で敵味方に分かれることになる。
この時代の物証も残る。 福王寺 の石造十三重塔は、現状では十一重を数えるものの鎌倉時代後期にさかのぼり、県内でも古い石造美術品として知られる。 萬福寺(まんぷくじ) に伝わる絹本著色二河白道図は鎌倉時代末期の作で、国の重要文化財。萬福寺そのものは平安期創建の安福寺を前身とし、正和2年(1313)に時宗4代の 呑海(どんかい) が再興して念仏の道場としたと伝える。
館と湊と、雪舟が遺した二つの庭
南北朝の内乱は、石見の一族を割った。益田の惣領家は北朝方につき、三隅・福屋・周布ら分家は南朝方に立つ。所領を分け与えられて自立していた庶家は、惣領家とは別の旗を選ぶこともできたのである。延元元年(1336)には南朝方の三隅の軍勢が 七尾城 の「北尾崎木戸」を攻めたことが、三隅兼茂の軍忠状に見える。軍忠状とは、武士が自分の戦功を書き上げて上位の者へ差し出す文書で、受け取った側が確かに見たと書き添えて初めて、恩賞を求める証拠になった。
内乱のさなかに惣領家は絶え、庶家から 兼見 が名跡を継ぐ。永徳3年(1383)には足利義満から所領を認める御教書を得、大内義弘からは守護不入——守護の使者が所領へ立ち入ることを許さない特権——を認められて、以後は大内氏の傘下に入った。幕府の御家人として、のちには将軍に直接まみえることを許される外様衆に列する。その地位もこの時に固まった。
兼見は14世紀の半ば、益田川右岸の 三宅御土居 へ館を移した。土塁で囲まれた2ヘクタールあまりの平地の居館で、益田川の水運と農業用水を押さえられる位置にあったからだと考えられている。応安7年(1374)には 萬福寺 を現在地へ移して一族の菩提寺とした(本堂は同年の建立で国の重要文化財)。これに先立つ貞治2年(1363)に建てられていた崇観寺(そうかんじ)にも、兼見は本尊の造立の大檀那として加わり、益田氏ゆかりの寺として遇している。館を中心に寺院が配され、中世都市というべき景観が益田川のほとりに整っていく。
その繁栄を支えたのは、河口の湊である。益田川河口左岸の中須町に営まれた 中須東原(なかずひがしはら)遺跡 と中須西原遺跡は、本来ひとつの港町だった。12世紀ごろに成立し、14世紀に大きな画期を迎える。発掘では、潟湖の岸に沿う大規模な礫敷き——舟を着け、荷を揚げるための石敷き——のほか、掘立柱建物、鍛冶炉、道路が良好な状態で見つかった。出土した陶磁器は国内各地のものに加え、中国・朝鮮・東南アジアのものがおびただしく、とりわけ朝鮮産の比率の高さが際立つ。中世の湊町の姿をこれほど伝える遺跡は全国でも数少なく、平成26年(2014)に国の史跡となった。益田氏はかねて「海洋領主」としての性格が指摘されてきたが、その裏づけが土の中から現れたことになる。
湊は山ともつながっていた。周防・安芸と境を接する匹見には小松尾城・上ノ山城といった山城が置かれ、豊かな材木は川を下って河口の湊へ運ばれ、そこから他国へ積み出された。逆に他国の品は湊から上流へ送られる。益田は、山と海を結ぶ結節点だった。
15代の 益田兼堯 は、永享9年(1437)に元服し、翌年には幕府から所領を安堵されて、三隅・福屋・周布・吉見といった近隣との関係を修復した。嘉吉から寛正にかけては九州・美作・播磨・伊予・河内・紀伊を転戦し、所領をめぐる訴訟を裁く幕府の機関、引付衆にも名を連ねた。その兼堯が文明11年(1479)、益田に招いたと伝えられるのが画僧・ 雪舟 である。
雪舟は崇観寺の住職に迎えられ、文明年間(1469〜1486)にその塔頭へ庭を残した。のちに崇観寺は戦国期に荒れ、17代の益田宗兼が塔頭の 医光寺(いこうじ) として再興する。池を中心に眺めながら歩く医光寺庭園と、須弥山をかたどった萬福寺庭園。この二つの庭は、昭和3年(1928)にそろって国の史跡及び名勝に指定された。兼堯の姿を描いた紙本著色益田兼堯像は雪舟の筆と伝え、国の重要文化財である。晩年の雪舟は東光寺で過ごしたと伝わり、その跡地に建つ 大喜庵 の裏手に墓がある。
やがて戦国の波が押し寄せる。19代の 益田藤兼 は陶氏と姻戚の関係にあり——陶晴賢の祖母が兼堯の娘だった——天文20年(1551)に晴賢が主君大内義隆を討った大寧寺の変に力を貸した。津和野の吉見氏とは所領を争い、天文23年(1554)の三本松城の戦いにも動員されている。
天文24年(1555)、頼みとした陶晴賢が厳島で毛利元就に討たれ、大内氏の屋台骨が崩れる。後ろ盾を失った藤兼は、来たるべき毛利勢に備えて七尾城を大きく改修し、平地の館から山城へ移った。はたして弘治2年(1556)、毛利方の吉川元春が石見へ攻め入る。七尾城は本丸が標高118メートル、尾根づたいに600メートル以上にわたって40あまりの曲輪を連ね、尾根を断ち切る堀切や、斜面に畝のように空堀を並べた守りを備える。石垣は築かれていない、土で造り抜かれた城である。しかし弘治3年(1557)3月、藤兼は降伏し、吉川元春の斡旋で毛利元就に従った。和睦ののちは山を下り、ふたたび三宅御土居に戻っている。
海も静かではなかった。応永年間には 高島 を根城とする海賊が現れ、益田兼理が兵を送って平らげたと伝わる。館と湊、庭園と山城——中世の益田の輪郭は、この時代にほぼ出そろった。
400年の館を畳んで、須佐へ去る
20代の 益田元祥 は、毛利氏のもとで重きをなした。吉川元春の娘を妻に迎え、朝鮮への出兵にも従っている。本拠の 三宅御土居 は元祥の代に大きく改修され、土塁に囲まれた館は最後の充実を迎えた。
領主としての務めも果たしている。天正9年(1581)に焼けた 染羽天石勝神社 の本殿を、元祥は大旦那となって天正11年(1583)に建て直した。この本殿は今日まで伝わり、国の重要文化財に指定されている。
しかし慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が防長2国へ大きく減らされると、益田氏もこれに従って長門国須佐——現在の山口県萩市須佐——へ移ることになった。永久2年(1114)の石見下向から数えれば、およそ500年。益田を本拠としてからでも400年余りにわたった一族の歴史が、この地では途切れた。三宅御土居も 七尾城 も使われなくなり、廃城となる。
主のいなくなった館の跡を守ったのは、残された家臣たちだった。鬼村平左衛門尉祐光らが跡地に泉光寺を建て、寺の境内として維持したため、土塁などの遺構は削り崩されることなく後世に残った。
河口の湊もまた、静かに姿を変えていた。中須の港町が営まれたのは12世紀から16世紀まで。益田川と高津川は砂丘に阻まれてしばしば流れを変え、そのたびに舟を着ける場所も移っていく。街区をもつ中世の湊町としての姿は、この頃までに終わりを迎える。ただし中須の浦そのものは、近世を通じて益田でも指折りの港であり続けた。
領主も湊も去ったあと、益田は城下町を持たない土地として、次の時代を迎えることになる。
領主の去った町に、三つの支配が入り組む
江戸時代の益田には、ひとりの領主がいなかった。村々は幕府の直轄領(大森代官所の管轄)と津和野藩領、浜田藩領に分かれ、しかも互いに細かく入り組んでいた。河口の平野でこそ高津川より東が浜田藩、西が津和野藩というおおよその色分けが立つが、少し離れればその線も崩れる。美都では都茂・東仙道が浜田藩領で二川が津和野藩領、高津川より東の北仙道や種には津和野藩の飛び地が食い込んでいた。城下町を持たぬかわりに、益田本郷と高津の町場が、市と湊の機能を担った。
湊は、川とともに動いた。砂丘に行き手を阻まれる益田川と高津川は近世以前には下流で合流しており、河口の位置も時代ごとに移った。江戸時代に描かれた国絵図には高津・益田の湊が記され、日本海を行き交う廻船が寄せている。上流の材木や紙、鉱石が積み出され、他国の品が運び込まれる構図は、中世から形を変えて続いた。
この時代、益田の名を石見の外へ広めたのは人麻呂の社であった。 高津柿本神社 には石見銀山奉行の大久保長安が社殿の造営と金の灯籠の奉納をしたと伝える。延宝9年(1681)、津和野藩主の 亀井茲親 (かめいこれちか)が社を高津城跡——高角山の現在地——へ移し、正徳2年(1712)に本殿を建て替えた。宝永7年(1710)には、人麻呂の生誕地と伝える戸田にも 柿本神社 を建てている。享保8年(1723)、人麻呂の没後千年にあたって朝廷から「柿本大明神」の神号と正一位が宣下され、享保13年(1728)に藩は社領13石を寄せた。津和野藩は人麻呂を石見の紙漉きの祖神と仰ぎ、この社を藩内第一と崇めた。
江戸の人びとにとっても、石見の高津は名所であった。歌川広重は『六十余州名所図会』の石見の一図に「 石見 髙津山 汐濱 」を選び、この浜の景を描いている。
紙といえば、益田は石州和紙の産地でもあった。美都の広兼家は承応元年(1652)に御用の紙漉きを命じられ、以後200年、13代にわたってその役をつとめている。水を得る工夫も残る。宝永4年(1707)に竣工したと伝える 蟠竜湖(ばんりゅうこ) の疏水は、 長嶺嘉左衛門 が長さ180メートルにわたって岩山を掘り抜き、高津沖田の田へ水を導いたものと語り継がれる。山では都茂の鉱山が掘り継がれ、匹見では文政元年(1818)にワサビの栽培が始まった。
海には過酷な暮らしもあった。浜田藩領だった沖合の 高島 では、正徳元年(1711)の秋にネズミが大発生し、あわせて不漁が重なって島民は困窮を訴えた。翌年、ついに全員が本土へ逃れ、のちに島へ戻ったのは4戸18人にとどまったという。
そして幕末、この土地は戦場になる。元治元年(1864)の禁門の変で長州は朝敵とされ、慶応2年(1866)、幕府は大島口・芸州口・小倉口・石州口の四つの口から長州を攻めた。そのうち石州口の戦場となったのが、益田だった。
もっとも、石州口で先に動いたのは、攻められる側の長州である。石州口を預かった大村益次郎は、幕府方が益田へ布陣しようとする動きを読み、藩境で待ち受けずに、みずから石見へ攻め入った。攻め込む先の益田は浜田藩の領であり、藩主の松平武聰は、のちに最後の将軍となる一橋慶喜の実弟にあたる。浜田藩は幕府方の中核といってよい。いっぽう、長州と浜田藩領のあいだに横たわる津和野藩は、どちらにも与しない中立の立場をとり、長州軍が領内を通り抜けるのを黙認する。
6月16日、長州軍1500は、浜田藩と津和野藩の境にあたる 扇原(おうぎはら)関門 (多田町)に迫った。守るのは関門守備隊長の 岸静江国治 とわずかな士卒、そして農民の兵16名のみである。長州側は再三にわたり門を開けるよう迫ったが、岸は藩の命を守って断固としてこれを拒んだ。ここに石州口の戦端がひらかれる。槍の名手であった岸は甲冑に身を固めて立ちはだかり、しかし近代の銃の前になすすべなく、弾を浴びて立ったまま息絶えたと伝わる。享年31。長州軍はその姿に感じ入り、いったん陣を引いて埋葬と碑の費用を出し、梅月の 西禅寺 の住職に弔いを託したという。
翌17日、長州軍は扇原を越えて益田へなだれ込み、 妙義寺 に本陣を構えた。前日には育英隊と須佐隊がそれぞれ戸田と持石浦に上陸し、高津に着陣している。迎え撃つ幕府方は浜田藩400・福山藩600の連合で、勝達寺・ 医光寺 ・ 萬福寺 に布陣した。撃ち合いは互角のまま大きな戦いとなったが、形勢はしだいに長州へ傾き、夕方には勝敗が決した。萬福寺の本堂には、いまも当時の弾の跡が残る。
戦いのおよそ1か月後、7月18日に浜田城は自ら火を放って落ち、藩主松平武聰は美作へ退いた。浜田藩は消え、益田を含むその領地は長州(周防山口藩)の預かりとなる。幕府の支配は、この地では明治を待たずに終わった。
わずか2年、町は石見町と名のった
慶応2年(1866)の石州口の戦いで浜田藩が去ったため、明治元年(1868)に始まる戊辰戦争のとき、益田はすでに戦いを終えていた。旧浜田藩領は周防山口藩の預かりとなり、西を占める津和野藩の亀井氏は新政府の側に立つ。石見の西端は、新政府方の管轄下で明治を迎えたのである。
そこから県の名は目まぐるしく変わった。明治2年(1869)8月、幕府領と山口藩預地が大森県に属し、明治3年(1870)にはその管轄が浜田県へ移る。明治4年(1871)に津和野藩が廃されて全域が浜田県となり、明治9年(1876)の府県統合でようやく島根県に落ち着いた。わずか7年のあいだに、郡内の帰属は4度も書き換えられたことになる。
明治12年(1879)、行政区画としての美濃郡が発足し、郡役所は益田本郷に置かれた。明治22年(1889)の町村制施行で郡内は1町20村となり、益田本郷村が単独で町制を敷いて益田町となった。大正11年(1922)に高津村が、昭和9年(1934)に吉田村が町制を敷いた。
そして昭和16年(1941)、益田町・吉田町・高津町の3町が合併して新しい町が生まれる。その名は「石見町」といった。石見国の名を背負ったこの町名は、しかし定着しなかった。わずか2年後の昭和18年(1943)、町はふたたび旧来の「益田」に改められる。以後、この土地は益田の名で通っている。
町を大きく変えたのは鉄道だった。大正12年(1923)4月1日、山口線が津和野から延びて 石見益田駅 が開業する。同じ年の12月26日には山陰本線が三保三隅から到達し、駅は山陰本線の所属となった。大正14年(1925)にはさらに石見小浜(現在の戸田小浜)まで線路が延びる。海と山に隔てられた石見の西端が、山陰と山陽の双方へ鉄路で結ばれた瞬間だった。
産業も形を整える。 都茂の鉱山 は近代の設備で掘り進められ、匹見のワサビは昭和の初めに島根県産の9割、年300トンを産して「東の静岡、西の匹見」と称された。石州和紙の生産も続き、明治20年ごろには 山本三吉 が糸操り人形を伝えて益田糸操り人形が生まれる。改良を経る前の古い形をとどめる操り人形芝居として、のちに県の無形民俗文化財に指定された。神楽の舞も、石見神楽としてこの地方に根づいていく。
人も出た。都茂村に生まれた 秦佐八郎 は、ドイツでエールリヒとともに化学療法剤サルバルサンを創り出し、梅毒治療の道をひらいた。 右田朝子 はわが国最初の眼科の女医とされる。弁士から放送の世界へ渡って「話芸の神様」と呼ばれた 徳川夢声 、益田町生まれで『鳥羽家の子供』が芥川賞候補となった作家の 田畑修一郎 も、この土地にゆかりをもつ。
戦争は、遠くで人を奪っていった。幕末の第2次長州戦争に始まり、西南戦争、日清・日露、日中戦争、そしてアジア・太平洋戦争と、益田からも数多くの人が出征して命を落とし、慰霊の碑が市内の各所に建てられている。東仙道や真砂からは満州へ開拓団が送り出されたが、戦況の悪化のなかを逃れて日本に帰ることができたのは、半数に満たなかった。
益田に残る戦争の跡は、各所に立つ慰霊碑と、帰らなかった開拓団の記憶である。もっとも、外洋に向いた海岸には戦争そのものが流れ着いた。明治38年(1905)の日本海海戦では、沈められたロシア艦隊の巡洋艦ウラール号の乗員が乗った短艇が土田の海岸に漂着している。乗っていたのは将校以下21人だった。村人ははじめ警鐘を打ち鳴らして身構えたが、彼らが銃を捨てて降伏の意を示すと、食べ物を持ち寄って世話をしたという。一行は翌日、客馬車に分乗して益田へ護送され、石州口の戦いで長州軍が本陣を置いたあの 妙義寺 に収容されたのち、浜田を経て九州の俘虜収容所へ送られた。上陸地の土田北浜には、いまも「露兵上陸の地」を示す標識が立つ。そして太平洋戦争の終戦間際には、撃墜されたアメリカ軍のB29の乗員を乗せたボートが高島の沖で救助され、大浜へ連れられた。この海は、遠い戦場と地続きだった。
過疎ということばが生まれた谷から
戦後の益田は、まず占領下の混乱のなかで動き出した。昭和24年(1949)1月、益田町の朝鮮人集落で、密告をもとにした密輸物資の摘発が行われた。占領軍の将校と経済調査官が同行しながら令状を欠いていた捜索は拒まれ、押収品は取り返される。翌日、検挙された者の釈放を求めて多数が警察署へ押しかけ、乱闘となった(益田事件)。48人が検挙され、9人が騒乱罪で有罪となっている。占領下の統制経済と、在日朝鮮人の置かれた立場が背景にあった出来事である。
昭和27年(1952)8月1日、益田町と小野・北仙道・高城・豊川・豊田・中西・安田の7村が合併して益田市が発足した。島根県では4番目の市である。昭和30年(1955)には鎌手・種・二条・真砂・美濃の5村を編入し、市域は日本海から山地まで広がった。
その山あいを、豪雪が襲う。昭和38年(1963)1月、いわゆる三八豪雪で 匹見町 は積雪4メートルに埋もれ、およそ1か月にわたって孤立した。根雪が消えたのは7月の半ばだったという。翌年からは集中豪雨も重なり、5年で人口が2000人減った。広見・小虫・小平では、集落ごと家を挙げて離れる挙家離村が起きている。町長の 大谷武嘉 は国会や報道の場へ足を運んで窮状を訴え続け、のちの過疎対策の法制化を促した。匹見町が「過疎発祥の地」と呼ばれるのはこのためである。昭和46年(1971)には、過疎と過密が互いを知るために、大阪の高槻市と姉妹都市の縁を結んだ。
海でも人が減った。沖合の 高島 には昭和35年(1960)に125人が暮らし、分校も置かれていたが、災害の打撃が重なって昭和50年(1975)3月、全住民が土田町へ移り住んだ。島は無人となった。
水害も繰り返された。昭和40年(1965)7月の集中豪雨では多田川の堤防が3か所で切れ、床上浸水は328戸に及ぶ。昭和58年(1983)7月の豪雨では益田川があふれた。その復旧のなかで、 三宅御土居跡 に防災道路を通す計画が持ち上がる。これに対して起きた保存運動は全国の学会・研究者を巻き込み、市は「歴史を活かしたまちづくり」を掲げて、遺跡の保存と道路の整備を両立させる道を選んだ。跡地は「おどい広場」として整えられ、市民の場となっている。
その選択は、やがて実を結ぶ。平成16年(2004)9月、 七尾城跡 と三宅御土居跡が国の史跡「益田氏城館跡」に指定された。平成26年(2014)には 中須東原遺跡 が国の史跡に加わる。中世の館と城、そして湊が、三点そろって国の史跡になった例は多くない。令和2年(2020)には「中世日本の傑作 益田を味わう」が日本遺産に認定され、令和4年(2022)には世界歴史都市連盟に加盟した。
市の姿も変わった。平成16年(2004)11月1日、美都町と匹見町を編入して市域は733平方キロメートル余となり、島根県内で最も広い市となる。かつて美濃郡と呼ばれた範囲が、そのまま一つの市になったかたちである。
交通と文化の器も整った。平成5年(1993)7月、 石見空港 (現在の愛称は萩・石見空港)が開港して東京と直結した。平成17年(2005)10月には 島根県芸術文化センター「グラントワ」 が開館した。屋根と外壁を石州瓦およそ28万枚で覆った建物のなかに、県立石見美術館と県立いわみ芸術劇場が入る。令和5年(2023)には、大正10年(1921)に建てられた旧美濃郡役所を改めて、 市立歴史文化交流館「れきしーな」 が開かれた。
昭和62年(1987)には、平安の昔に朝廷が銅を検めて以来1100年を越えて掘り継がれた都茂の鉱山が、その歴史を閉じた(資料によっては前年とする)。
ダムのない一級河川である高津川は、いまも鮎の川として知られる。ワサビ、メロン、ユズ。山と海の恵みは変わらない。人麻呂を祀る社、雪舟が遺した二つの庭、土に埋もれていた中世の湊——石見の西端に積み重なった時間は、いまこの町の資産として数え直されている。
WEB 縄文文化の宝庫 匹見町(『益田ふるさと物語』益田市デジタルアーカイブ) ADEAC
WEB 新槇原遺跡発掘調査報告書 匹見町教育委員会
WEB 益田市文化財保存活用地域計画 第3章 益田市の文化財の把握と歴史文化の特色 益田市
WEB 歴史・文化 益田市 文化財課
WEB 中小路遺跡(島根県 文化財) 島根県
WEB 島根県益田市四塚山古墳群出土の三角縁神獣鏡と「同笵鏡」(岩本崇, 島根大学法文学部紀要, 2011) 島根大学
WEB スクモ塚古墳(国指定文化財等データベース) 文化庁
WEB 大元古墳(国指定文化財等データベース) 文化庁
WEB 愛に満たされた歌聖 柿本人麿(『益田ふるさと物語』) ADEAC
WEB 戸田と高津 二つの柿本神社 益田市
WEB 沖手遺跡・久城東遺跡 発掘調査報告書 益田市教育委員会
WEB 益田市所在の国指定・登録文化財一覧 益田市
WEB 中須東原遺跡(国指定文化財等データベース) 文化庁
WEB 中須東原遺跡 発掘調査報告書(益田市教育委員会, 2013) 全国遺跡報告総覧
WEB 中世石見国高津川・益田川河口域港湾の基礎的研究(田中大喜, 国立歴史民俗博物館研究報告223, 2021) 国立歴史民俗博物館
WEB 中世益田の武家領主本拠調査(田中大喜・渡邊浩貴, 国立歴史民俗博物館研究報告245, 2024) 国立歴史民俗博物館
WEB 画聖 雪舟-益田を愛した情熱と努力の人(『益田ふるさと物語』) ADEAC
WEB 染羽天石勝神社本殿(国指定文化財等データベース) 文化庁
WEB 今市船着場遺跡の歴史的な役割:益田川の河口津をめぐる状況(服部英雄, 中世今市船着場跡文化財調査報告書 pp.61-78, 益田市教育委員会 2000)
WEB 義に生きた侍 岸静江国治(『益田ふるさと物語』) ADEAC
WEB 岩山を掘りぬき蟠竜湖の水を-長嶺嘉左衛門(『益田ふるさと物語』) ADEAC
WEB 郷土が誇る世紀の医学者 秦佐八郎(『益田ふるさと物語』) ADEAC
WEB わが国最初の眼科女医 右田朝子-二十七歳の遺言(『益田ふるさと物語』) ADEAC
WEB 話芸の神様 徳川夢声(『益田ふるさと物語』) ADEAC
WEB 市のプロフィール 益田市
WEB 日本遺産関連情報 益田市
WEB 「こころ」を一つにして-忘れない 昭和五十八年七月豪雨(『益田ふるさと物語』) ADEAC
WEB 囲碁を世界に_岩本薫(本因坊薫和)(『益田ふるさと物語』) ADEAC
WEB 益田市の名誉市民(『益田ふるさと物語』) ADEAC
益田に住む人、育った人、これから訪れる人へ。この街の歩みを、ぜひ教えてあげてください。
2万3000年前の石片が土に残る。
焼いた石を敷き詰めた調理の場。
水田ノ上遺跡に細形銅戈の切先。
全長85メートルの前方後円墳。
全長98メートルのスクモ塚古墳。
天平9年に社を建てたと伝わる。
節義を賞され田租を免ぜられる。
大地震と津波が石見の海岸を襲う。
流された神像を祀ったと伝える。
益田川右岸の平地の居館に入る。
崇観寺の住職に迎えたと伝わる。
七尾城に拠るも吉川元春に屈す。
天正9年の焼失から2年で成る。
浜田・福山藩と益田で撃ち合う。
1町7村が合併し4番目の市に。
積雪4メートルで1か月孤立した。
石州瓦28万枚に覆われた建物。
石見国美濃郡に暮らした女性。神護景雲2年(768)、寡婦を通して節義を守り、蓄えをたびたび貧しい者に分け与えたとして朝廷に表彰され、生涯の田租を免ぜられた。益田に生きた人の最も古い記録に属する。
持統・文武朝に活躍した歌人。晩年は石見国へ下り、高津川の河口沖にあったという鴨島の鴨山で世を去ったと伝わる。戸田には生誕地の伝承も残り、高津・戸田の柿本神社に和歌の神として祀られている。
石見の在庁官人として一族の地位を固めた御神本氏4代。建久年間に居館を益田へ移して益田氏を名のり、七尾山に城を築いたと伝わる。次男・三男から三隅氏・福屋氏が分かれ、石見一円に広がる一族の起点となった。
時宗4代の遊行僧。正和2年(1313)、益田の中洲浦にあった安福寺を再興して念仏の道場とし、のちに益田氏の菩提寺となる萬福寺の起こりをつくったと伝わる。
南北朝の内乱を生き抜き、庶家から惣領家を継いだ益田家11代。14世紀半ばに益田川右岸の三宅御土居へ館を移し、応安7年(1374)に萬福寺を現在地へ移して菩提寺とし、館を核とする中世都市の景観を整えた。
益田家15代。永享9年(1437)の元服ののち幕府と直接誼を通じ、三隅・福屋・周布・吉見との関係を修復した。九州や畿内を転戦して引付衆に列し、文明11年(1479)に画僧雪舟を益田へ招いたと伝わる。
備中に生まれ明に渡った画僧。益田兼堯に招かれて崇観寺に迎えられ、医光寺と萬福寺に庭を、また兼堯の肖像を残したと伝わる。晩年は市域の東光寺で過ごしたとされ、跡地に建つ大喜庵の裏手に墓が残る。
益田家19代。陶晴賢と姻戚の間柄から大寧寺の変に力を貸し、津和野の吉見氏と所領を争った。厳島で晴賢が敗れると七尾城を大改修して山城へ移ったが、弘治3年(1557)に降伏し、以後は毛利氏に従った。
益田家20代で、吉川元春の娘を妻に迎えた毛利氏の重臣。本拠の三宅御土居を大きく改修し、天正11年(1583)には焼失した染羽天石勝神社の本殿を大旦那として再建。関ヶ原の後は毛利氏に従い須佐へ移った。
津和野藩3代藩主。延宝9年(1681)、風水害を案じて高津の柿本神社を高角山の高津城跡へ移した。宝永7年(1710)には、人麻呂生誕の伝承が残る戸田にも柿本神社を建てている。
高津の庄屋。水に乏しい高津沖田の田を救おうと蟠竜湖からの疏水を発願し、両側から掘り進める工法で岩山を貫いて宝永4年(1707)に完成させた。高津の大元神社に頌徳碑が建てられ、いまも顕彰されている。
浜田藩士。慶応2年(1866)の石州口の戦いで、多田村の扇原関門を守る隊長として長州軍の通行を拒んだ。集めた猟師と部下を退かせ、ひとり長槍を杖に立ったまま討たれたと伝わる。享年31。
東京浅草で糸操り人形芝居を興行していた人形遣い。その衰えを憂えて関西を経て益田へ移り住み、明治20年(1887)ごろ浄瑠璃の愛好者団体「小松連」に技を伝えて、益田糸操り人形の礎を築いた。
現在の中吉田町に生まれ、6歳で右田家の養女となった医師。明治21年(1888)に上京して済生学舎に学び、同26年に医術開業試験へ合格して日本初の眼科女医となったが、留学を志半ばに27歳で世を去った。
美濃郡都茂村(現在の美都町都茂)の山根家に生まれ、14歳で岡山の秦家の養子となった細菌学者。ドイツでエールリヒとともにサルバルサンを見いだし、梅毒治療の道をひらいた。郷里の秦記念館に顕彰される。
本名は福原駿雄。益田に生まれ、幼少期に津和野を経て上京し、活動写真の弁士として東京を代表する人気を得た。トーキーの時代には漫談・俳優・放送へ転じ、『宮本武蔵』の朗読で「話芸の神様」と呼ばれた。
美濃郡高津村(現在の高津町)に生まれた囲碁棋士。本因坊位を2期保ち、昭和20年(1945)には広島郊外で原爆下の対局に臨んだ。戦後は日本棋院の再建と囲碁の海外普及に尽くし、益田市名誉市民に選ばれた。
美濃郡益田町(現在の益田市)に生まれた作家。自伝的な『鳥羽家の子供』が芥川賞の候補となり、郷里の風土を書いた『出雲・石見』も残した。取材で訪れた盛岡で急に病を得て、41歳で世を去った。
昭和38年(1963)から4期16年にわたって匹見町長を務めた。三八豪雪と豪雨で人が去る町の窮状を「過疎」ということばで国会や報道に訴え続け、過疎対策法の制定を促して「過疎町長」と呼ばれた。
この街が好きな人に、この街の歴史を。益田の物語を、あなたのタイムラインから広めてください。